2019年7月3日水曜日

★奥の細道紀行 第39章 白河神社

↑「白河の関跡 白河関は、古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政12年(1800)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。関が置かれた年代については不明であるが、延暦18年(799)、承和2年(835)の太政官符には「白河」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の78世紀頃には存在していたものと考えられる。‥‥
↓「式内 白河神社」

↓「史跡 白河関跡」

 白河神社拝殿
 本殿


延喜式内社 白河神社
 祭神 白河国造命(シラカワクニノミヤツコノミコト)・天太玉命(アメノフトタマノミコト)・中筒男命(ナカツツオノミコト)・衣通姫命(ソトオリヒメノミコト)

古歌碑があるらしいので付近を当たってみたが見当たらなかった。これは新しい説明板。歌碑には「白河の関」に題材をとる平安時代の著名な和歌三首が刻まれていたそう。
便りあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと》 平兼盛
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関》 能因法師
秋風に草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし》 梶原景季
能因法師の歌は余りにも有名。だが、一説によると法師は陸奥など行ってはおらず都で歌枕を空想して詠んだという。翌年まで家から一歩も外に出ず(陸奥を訪れて不在の筈)、また一年後にわざわざ日焼けして外に出たという(陸奥の旅で日焼けしていなければおかしい)。


0 件のコメント:

コメントを投稿