〇白河の関跡を、国道294号線(旧奥州街道)の白坂「関の明神(境の明神)」の近くに比定する論者はなかなかいない。研究者の大概は、旗宿(はたじゅく)字関の森の白河神社に隣接する関の森公園を白河の関跡に比定する。論者の一部が、旗宿から白河市街に抜けていく道中に聳える関山(せきさん)の山頂に古関があった可能性を論ずるくらいである。芭蕉と曾良は、旗宿にあり・当時「二所の関」と呼ばれていた古関(今「白河の関」と呼ばれてほとんど疑義が生じない。国指定史蹟となっている)を先ず訪ね、それから念のため関山満願寺に登山して白河の町に下りている。関山は619mの標高がある。その山にわざわざ登頂したところを見ると、芭蕉は旗宿の古関を白河の関跡と断定しかねたのだろう。芭蕉が探訪した元禄2年(1689)当時、旗宿の古関(宿の主は「二所の関」と呼んだ)は全く整備されておらず草木の中に埋もれていた。白河藩主松平定信が旗宿の古関を「白河の関跡」と断ずる研究成果を公表し、関跡に「古関蹟の碑」を建立したのは1800年のこと。芭蕉にとって、白河の関跡を尋ねることは、奥の細道紀行の眼目・夢だった。後悔(探訪し損ない)は許されない。そこで芭蕉は念のため(ご苦労なことに)関山にも登って(二股かけて)悔いを残さず(疲れ果てたが)陸奥国に入った。
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