2019年7月6日土曜日

★奥の細道紀行 第44章 鏡池・かげ沼

白河の関から須賀川宿への道を辿る途中で「鏡池・かげ沼」の小さい案内表示を思いがけず発見。芭蕉《奥の細道》の中でもこの池沼は不思議な存在。芭蕉が実際に尋ねたのか訪ねないのか、そもそも固有名詞か否かも判然としないように書かれている。それが突如現実のモノとしてボクの目に飛び込んだ。
奥の細道》《とかくして越え行くまゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く(★註1)、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひ()て、山つらなる。かげ沼と云う所を行くに、今日は空曇りて物陰うつらず。》
★註1「会津根」とは会津磐梯山のこと。白河・須賀川間の奥州路からは見えないという。白河「関山」の山頂からは見えるという説がある。『曾良随行日記』には『(関山・山頂)本堂参詣の比(頃)、少雨降る。暫時で止む』とある。天気は決して好くない。磐梯山は見えなかったのでないか。このくだりは、芭蕉の想像力の産ではないか。
 ↑「鏡沼跡 1213年信濃源氏の泉親衡(ちかひら)による北条討伐の謀反が発覚し加盟者は捕らえられた。和田平太胤長もこれに参加した為、岩瀬郡稲村に配流され五月九日誅(処刑)された。夫の身を案じた妻は、鎌倉よりこの地に至り里人に夫の死を知らされ、鏡をいだき沼に入水して果てた。以来この沼を「鏡沼」というと伝える。‥‥芭蕉の奥の細道に「かげ沼と云う所を行くに、今日は空曇りて物陰うつらず」とあるは、この地は一種の蜃気楼現象が現れ、道行く人が水中を歩く如く見ゆることで有名であった。」
青い田んぼの奥に見える木陰(背後の大きな森の手前)に「かげ沼」がある。
 ↓芭蕉と曾良の石像。いかにも拙い出来だった。
 ↓古図。下方真ん中に「鏡沼」という文字がどうやら見える。
 鏡沼跡の石碑
 ↓鏡沼・かげ沼。水溜りになっているが、草が繁って池に見えない。

 木陰に鏡沼がある。
 鏡沼から細い流れで繋がった湿地にガマが群生。
 鏡沼(奥)とガマ沼を繋ぐ細流

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