2019年7月7日日曜日

★奥の細道紀行 第45章「須賀川芭蕉記念館」

夕方近く、カーナビに従って須賀川(すかがわ)市営芭蕉記念館にたどり着いたら、記念館は移転してそこは公民館になっていた。皆親切で総出で記念館の移転先を説明してくれた。近かった、というよりも須賀川市街地が狭い。現「芭蕉記念館」に飛び込んだのが午後4時半過ぎ。閉館時刻は5時。館員の女性たちは皆これまた親切で温かい。市営の芭蕉記念館があるのは、芭蕉が須賀川宿で78日も逗留してくれたことに須賀川市民が感謝と矜持の念を持っているから。

芭蕉と曾良は、奥州俳壇の宗匠《等窮》から下にも置かぬ大歓待を受けた。
おくのほそ道と須賀川
↑「奥州街道屈指の宿場町であった須賀川は、古くから俳諧が盛んなまちとして知られています。元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)、江戸から「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉と弟子の河合曾良は、先人達が残した街道筋の名所や旧跡、歌枕を訪ね歩き、陸奥の玄関口白河の関を越えて、4月22日(陽暦6月9日)、須賀川の旧知の俳人であった相楽等窮を訪ね、8日間滞在しています。等窮は、芭蕉らに長い旅の労をねぎらい「白河の関いかにこえつるや(どんなお気持ちで関を越えられましたか)」と尋ねます。これに対し、早苗がゆれる奥州路を歩いてきた芭蕉は、

相楽等窮(さがらとうきゅう)


↓芭蕉時代の旅道具一式。右上・印籠、右下・瓢箪、中上・矢立、中下・和磁石、左・道中日記

↓道中日記の左・革巾着、左端・草鞋。
 旅枕
芭蕉と曾良の旅姿

 添えてある句は「おくのみちは山みなまろし五月晴」。句は画を描いた渡辺光徳という人のもの。
 ↓芭蕉の坐像 
はるもやゝけしきとゝのふ月と梅 はせを》
 芭蕉が画の師と仰いだ森川許六の画に、芭蕉が句を添えた。
 ↓芭蕉と曾良の旅姿。森川許六画。

森川許六(彦根井伊藩士)は芭蕉十哲の一人。芭蕉と最も心が通っていたと言われる。この画は芭蕉生前に描かれ、芭蕉の姿をよく表していると思われる。貴重な作品。
〇親切で魅力的な女性たちに「等窮」邸跡、等窮小公園の所在地を教わって、夕暮れ迫る須賀川の街に飛び出した。午後五時。

0 件のコメント:

コメントを投稿