風流の初めやおくの田植うた
無下(むげ)にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつゞけて、三巻(みまき)となしぬ(★註2)。》
★註1 芭蕉と曾良は須賀川宿で実のところ7泊8日を過ごすことになる。
『曾良随行日記』『(四月)22日 須か川、乍単斎(さたんさい。等窮の俳号の一つ)宿、俳有り』
〇「等窮小公園」に到着。芭蕉記念館から近い。愛車セレナと。↓「軒の栗庭園》案内板。案内図の赤丸のうち左下が等窮小公園、右上が軒の栗庭園を表す。いずれも豪商等窮の屋敷地だった。
↑「元禄2年新暦の6月9日芭蕉と曾良は等窮を訪ねて須賀川へ入りました。「奥の細道」の本文に《すか川の駅に等窮といふものを尋ねて、四五日とゞめらる」とあります。その等窮宅は、現、NTT須賀川の付近にありました。等窮は本名を相楽伊左衛門と言い問屋の仕事をしながら、その商業活動のために江戸へ度々出かけていました。その間に江戸での俳諧活動〇持たれ、芭蕉との関係が生まれました。等窮は奥州俳壇の宗匠としてその地位にあり、芭蕉に多くの情報を提供し、「みちのく歌枕の地」探訪の旅を助けました。
《風流の初めや奥の田植え歌》 芭蕉
「覆盆子(いちご)を折て我まうけ草」 等窮
「水せきて昼寝の石やなをすらん」 曾良(★註2)
★註2 この三連が《奥の細道》で云う「三巻となしぬ」に該当
ここ、「軒の栗庭園」は、等窮の住む本町に芭蕉が逗留し 《世の人の見つけぬ花や軒の栗 芭蕉》
と詠まれたことから名付けられました。」
↓木の繁みの下に芭蕉と曾良の像が並んでいる。写真にすると見えにくい。
《風流の初めや奥の田植え歌》 芭蕉
「覆盆子(いちご)を折て我まうけ草」 等窮
「水せきて昼寝の石やなをすらん」 曾良(★註2)
★註2 この三連が《奥の細道》で云う「三巻となしぬ」に該当
ここ、「軒の栗庭園」は、等窮の住む本町に芭蕉が逗留し 《世の人の見つけぬ花や軒の栗 芭蕉》
と詠まれたことから名付けられました。」
↓木の繁みの下に芭蕉と曾良の像が並んでいる。写真にすると見えにくい。
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