つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗(ばかり)歟(か)、苔(こけ)を穿ちて文字幽(かすか)也。四維国界之数里をしるす。「此の城、神亀元年、按察使(あんぜつし)鎮守府将軍大野朝臣東人(あづまひと)之所置也。天平宝字六年、参議、東海東山節度使同じく将軍恵美(えみ)朝臣朝獦(あさかり)修(おさめ)造(つくる)也。十二月朔日(ついたち)」と有り。聖武皇帝の御時に当たれり。むかしよりよみ置ける歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代(よ)変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑ひなき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労(つかれ)をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかり也。』
『曾良随行日記』では『‥‥仙台を立つ。十符菅・壺碑を見る。‥‥』とこれだけ。
〇古来歌枕として名高い「壺の碑」と、芭蕉がこうして対面し感激の涙を流した「壺の碑・多賀城碑」はどうやら同一ではない。歌枕としての「壺の碑」は、元来坂上田村麻呂(実は文屋綿麿)が奥州七戸壺村の北に建てたと伝えるものを指し、新古今集頃までの歌枕としてはそれを指したそう。
↓「壺の碑」石碑
↓「壺の碑」石碑
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