2019年8月29日木曜日

★奥の細道紀行 第85章 多賀城市「壺碑(つぼのいしぶみ)」

奥の細道》《壺碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城に有(あり)
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗(ばかり)()、苔(こけ)を穿ちて文字幽(かすか)也。四維国界之数里をしるす。「此の城、神亀元年、按察使(あんぜつし)鎮守府将軍大野朝臣東人(あづまひと)之所置也。天平宝字六年、参議、東海東山節度使同じく将軍恵美(えみ)朝臣朝獦(あさかり)(おさめ)(つくる)也。十二月朔日(ついたち)」と有り。聖武皇帝の御時に当たれり。むかしよりよみ置ける歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代()変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑ひなき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労(つかれ)をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかり也。』
曾良随行日記』では『‥‥仙台を立つ。十符菅・壺碑を見る。‥‥』とこれだけ。
〇古来歌枕として名高い「壺の碑」と、芭蕉がこうして対面し感激の涙を流した「壺の碑・多賀城碑」はどうやら同一ではない。歌枕としての「壺の碑」は、元来坂上田村麻呂(実は文屋綿麿)が奥州七戸壺村の北に建てたと伝えるものを指し、新古今集頃までの歌枕としてはそれを指したそう。
 ↓
「壺の碑」石碑
 ↓「壺の碑」を蔵する小堂

「壺の碑」正面。表面に刻字があるが、かなり風化。重文
  ↓左右裏面には刻字なし。右から見る
↓裏面
↓左から見る
 ↓御堂の右側に芭蕉句碑がある

 あやめ草足に結ばむ草鞋の緒 はせを》

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