2019年9月10日火曜日

★奥の細道紀行 第93章 塩竈市⑦「塩竈の宿」

《曾良随行日記》『⑦宿、治兵へ()法蓮寺前(画工)加衛門の状を添える。銭湯有るに入る』
芭蕉と曾良の塩竈での宿の跡を訪ね回って↓「現在地(赤色)」まで辿り着いた。ここは東参道入口。

↓左上の緑の岡に向かって参道が、右から東参道、七曲坂、表参道とついている。
↓右折すると東参道に至る。武家の参道
地元の人達に訊いて、芭蕉宿泊の地は「七曲坂」の麓に在ったことを知る。
↓七曲坂参道。庶民の参道だったそう。因みに表参道は豪農・豪商用参道。裏参道は武家用。


↓芭蕉止宿の地付近(鳥居の奥)
↑「芭蕉止宿の地 芭蕉が止宿したのは此の付近。塩竈神社別当法蓮寺(明治4年廃寺)の門前。
 ↓七曲参道を登って行く
↓裏参道(東参道)と合流
↓合流すると岡の上この鳥居の前に来る
 鳥居を潜って進むと東神門に至る。
鳥居の近くに、芭蕉碑がある。
 碑面は風化してほとんど読み取れないが、《奥の細道》塩竈明神参詣の章が書かれている。
↓法蓮寺
↑「‥‥尚、勝畫楼(書院)は藩主の神社参拝のお休み所として建てられ、明治9年明治天皇の塩竈神社御参拝の折、御休憩所となった」
↓往年の法蓮寺
↓勝画楼(書院)




↑「勝画楼 画にも勝る眺望から五代藩主伊達吉村により命名された塩竈神社別当法蓮寺の書院で、歴代藩主が当神社を参拝する際、身を清め衣服を改める御休息所であった。明治4(1871)、廃仏毀釈により法蓮寺及び脇院の12坊は解体されたが、書院ということから解体を免れ、同9年、明治天皇東北行幸の際の行在所となり、昭和40年代までは料亭として使用された。


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