《奥の細道》《早朝①塩竈の明神に詣(もうず)。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽(さいてん、椽は垂木)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きゅうじん)に重り、朝日あけ(朱)の玉がき(垣)をかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国(わがくに)の風俗なれと、いと貴けれ。神前に②古き宝燈有。かねの戸びらの面(おもて)に文治三年和泉の三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命(かめい)今に至りてしたはずといふ事なし。誠(まことに)人能(よく)道を勤(つとめ)、義を守(まもる)べし。名もまた是にしたがふと云(いえ)り。日既に午(うま、午の剋。正午)にちかし。③船をかりて松嶋にわたる。其間(そのあい)二里餘(あまり)、雄嶋の磯につく。》
『曾良随行日記』『九日 ‥辰の剋(午前8時)、塩竈明神を拝(はいす)。帰而③出船。‥‥』
↓左宮幣殿・本殿
↓右宮拝殿。祭神は経津主(フツヌシ)神。この神は、香取神宮の祭神。日本最強の武神二柱が祀られているとなると、この神社は大和朝廷の北の最前線・多賀城の守護神を祀る奥州鎮護の重要な社だったろう。
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