『曾良随行日記』『○十六日 吹浦ヲ立。‥‥昼ニ及テ塩越(象潟)ニ着。佐々木孫左衛門(能登屋の主)尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭(在所の祭礼)ニ付
而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。
十七日‥‥(向屋で)朝飯後、皇宮山蚶 彌(満)寺へ行。‥‥(能登屋で)夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。‥‥(能登屋へ)帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。‥‥
○十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。(能登屋で朝)飯終テ立。‥‥暮ニ及テ、酒田ニ着』
』
③「能登屋跡」発見 十七日‥‥(向屋で)朝飯後、皇宮山蚶 彌(満)寺へ行。‥‥(能登屋で)夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。‥‥(能登屋へ)帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。‥‥
○十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。(能登屋で朝)飯終テ立。‥‥暮ニ及テ、酒田ニ着』
』
↓写真中央やや右寄りに白い案内板が立っている
↓案内板の中味。「奥の細道 芭蕉が宿泊した能登屋跡
芭蕉は元禄2年(1689)6月16日、門弟の曾良を伴って昼すぎに象潟に着いた。能登屋へ泊るつもりでわらじをぬいだが、熊野権現の祭りで女客があって、やむなく向屋へ一泊した。翌17日は、能登屋・佐々木孫左衛門という旅人宿へ泊まった。名主の④「今野又左衛門と実弟の⑤「嘉兵衛」が歓待した。ここが17日に宿泊した能登屋跡である。」
↓能登屋跡は今は駐車場になっている。菓子屋さんになっているという情報だったのだが、廃業したのだろう。
②「向屋」は能登屋の向かいだというので容易に発見できると思っていたのだが、
↓向かいに該当するのはこの家だった。能登屋跡のような案内標識がない。
無いはずがないと思って向かい一帯を探し回ると、上図の家の前に↓こんなものを発見。
↑↓この鉄棒の上端に能登屋跡と同様「奥の細道・芭蕉が宿泊した向屋跡」の案内板がくっ付いていたはずなのだ(能登屋跡の写真参照)。それにしても観光行政が緩んでいる。
〇「向屋」も発見
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