2019年11月22日金曜日

★奥の細道紀行 第186章 象潟「カン満寺」

曾良随行日記』『○十六日‥‥
十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶 彌(満)寺へ行。‥‥夕飯過テ潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。‥‥』
奥の細道》 『‥‥江上(こうしょう)に御陵(みささぎ)あり、神功皇后の御墓(おんはか)と云ふ。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)と云ふ。此の所に御幸(みゆき)ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。此の寺の方丈に坐して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をさゝえ(へ)、其の影うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築きて、秋田にかよふ道遥かに、海北にかまえ(へ)て、浪打ち入る所を汐ごしと云ふ。‥‥』
〇「汐ごし」 潟が海に通じていた箇所。今も大塩越と呼ばれる地がある。
↓「カン満寺と九十九島 慈覚大師の開創と伝えられるカン満寺には、師北条時頼が訪れたとされているほか松尾芭蕉や小林一茶など多くの文人たちが訪れており境内や寺にはゆかりの旧蹟や筆蹟が遺されている。カン満寺の周辺一帯は、かつて九十九島といわれるたくさんの島々をうかべた潟であり、松島と並び称された景勝地であった。しかし、文化元年(1804)の大地震で象潟は隆起し、一夜にして陸地となった。当時の島々は現在、水田に点在し、春の田植時は水面に浮かび往時をしのばせ、夏は深緑、秋は黄金色、冬は雪景色の中と四季折々の風景を見ることができる。‥‥」
 ↓羽越本線踏切を渡る。
↓ 「皇宮山・カン満寺」 左手に行くと、芭蕉銅像・西施石像がある。
 ↓ 芭蕉像
↓ 西施像
 ↓ ねぶの花。
 ↓ 奥に山門がある。

↓ 山門


 ↓鐘付堂と位牌堂
 本堂


 ↓木登り地蔵
 ↓ 北条時頼のつつじ
 ↓ たぶの木
 ↓ 親鸞聖人腰掛石
 ↓ 舟つなぎの石。向かいの景色は能因島方面。芭蕉は能因島から「向う岸」に当たるここカン満寺に舟を寄せて、多分この石に舟を繋いで寺の裏庭に上がったことに《奥の細道》ではなっているが、《曾良随行日記》を読むと事実は違う。芭蕉はここでも文学的効果を狙って虚構を交えている。芭蕉がカン満寺を訪れたのは朝飯後、象潟に舟を浮かべ九十九島を巡ったのは夕飯後であった
  ↓ 歌枕。西行法師の歌桜
きさかたのさくらは浪にうづもれて花のうへ(上)こぐ(漕ぐ)海士のつり舟
 ↓猿丸太夫姿見の井戸 猿丸太夫は《奥山に紅葉踏み分けなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき》(百人一首)の作者。
 ↓ 芭蕉句碑


 ↓中央に「芭蕉翁」、左右に分けて「象潟の雨や」「西施がねぶの花」 これは現在伝わっている句形《象潟や雨に西施がねぶの花》と違う。初案だろう。


 句碑側面に「宝暦十三葵未九月‥‥」と刻してある。



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