『曽良随行日記』には親不知を越えた記事はない
〇国道8号線が親不知にかかると道はくねくねと屈曲しながら上昇する。その途中に「親不知記念広場」が設けられている。運転に必死なので大概の人は見落とす。
↓赤丸の現在地が記念広場↓浮世絵に描かれた親不知
〇天嶮親不知。芭蕉と曾良はこの海岸沿いを歩いて行ったに違いない。天候不順ならば、能生宿で足止めを食ったろう。この日の天候を気にしていたと見えて曾良は随行日記に次の通り書き付けている。『○十二日 天気快晴。能生ヲ立。』
↓天嶮に開かれた道がある(今は遊歩道)。その絶壁に「如砥如矢」の四文字が刻まれている。明治時代に道を通した時、村長が刻ませたという。原典の漢文ではこの四文字は道の状態を指す表現らしいが、明治時代にここに到達したローエルはこの絶壁の状態の表現と解釈した。磨かれた砥石の如くピカピカで・飛ぶ矢の如く真っ直ぐ。
↓「如砥如矢」
↓親不知記念広場に母子像が立っている
↑↓「天嶮断崖黎明」柱
〇親不知の険を越えると市振宿に着く。
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