〇小松に着いたその夜は近江屋に泊った。翌日は快晴で、芭蕉は小松を立とうと欲したが、集まった門人俳友達がそれを聞いて北枝を通じて留まらしめた。それで近江屋から「立松寺」へ移ることになった。
〇ところで小松市内の「建聖寺(けんしょうじ)」が芭蕉留杖の地と主張している。その根拠は上記の曾良随行日記の7月25日のくだりによる。
『25日 快晴。小松を立たんと欲するも、所衆聞きて北枝を以て留めしむ。立松寺へ移る。‥‥』 この「立松寺」が「建聖寺」の当て字だそう。どう当て字なのか。思案したがその根拠は次の考えしかなかろう。「建聖寺」を「たて(建)しょう(聖)寺」と読み、「立(たて)松(しょう)寺」を当てた。この説が、芭蕉曾良当地巡行の後の世の創作なら、それは牽強付会に近い。あるいは曾良が日記をつけるときに当て字をした可能性もあるかも。日記の随所に曾良が当て字(勘違い)をする癖が現れている。小松に古来「立松寺」なる寺が存在した記録(証拠)が(多分)ないこともこの主張の補強証拠になっているのだろう。
↓ 「永龍山・建聖寺(けんしょうじ) 曹洞宗
‥‥元禄2年(1689)に松尾芭蕉が立ち寄ったと言われています。寺宝には、仏涅槃図や芭蕉十哲の一人である立花北枝が作ったとされる芭蕉木像(小松市指定文化財)、境内には芭蕉の句碑などがあります。」
↓ 「小松市指定文化財 文化財名・芭蕉木像
管理者 建聖寺
由緒並びに指定理由 松尾芭蕉が門人曾良を伴い奥州から北陸路を経て大垣に至る紀行文は「奥の細道」として衆知のことであり、郷土の文化にも大きな影響を与えている。この年の旧暦7月24日小松に到着した芭蕉一行は句会を催し、発句など含めて4句が遺されている。小松での滞在地の一つであった建聖寺に蕉門十哲の一人であった立花北枝作による座像の芭蕉木像が残されている。座高18,cm、横幅17cm、厚さ9.6cm、木像裏面には「元禄みのとし北枝謹で作之」とあり、師匠像を永遠に残すために丹精こめて製作したことが伺える。指定年月日 昭和48年11月2日
小松市教育委員会」
↓「はせを(芭蕉)留杖の地」
↓「芭蕉翁」
《志ほらしき名や小松ふく萩すゝき》
↓門人「北枝」が制作したと云われる芭蕉木像。建聖寺に伝わっている。右は、芭蕉木像が入っていたつづら
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