2020年2月15日土曜日

★奥の細道紀行 第275章 加賀市大聖寺「曾良との別れ」「全昌寺」

曽良との別れ

曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に 、 
(ゆき)行てたふれ伏とも萩の原(★註1)  曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(★註2)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又 、
今日よりや書付消さん笠の露
 大聖持(大聖寺)の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て 、
終宵(よもすがら)秋風聞やうらの山
と残す。一夜の隔(へだて)千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮(★註3)に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板(★註4)鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば 、
庭掃て(★註5)(いで)ばや寺に散柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
★註1 この句は、西行の歌「いづくにかねぶりねぶりて倒れ伏さむと思ふ悲しき道芝の露」(山家集)の本歌取になっている
★註2 「せきふ」と読む。鳧は、けり。蘇武と李陵とが匈奴に捕らえられていたのに、蘇武だけが漢に召喚されることになり、「雙鳧ともに北に飛び、一鳧ひとり南に翔ける」と李陵が別れを哀しんで詠んだ故事による
★註3 禅宗の寺の修行僧たちの寮
★註4 寺院で食事の合図に使う青銅製の鐘。雲板とも
★註5 曹洞宗では宿泊の恩義に与った客は、庭を掃いて立ち去るのが習わし
〇「全昌寺」は、地元石川県民にすらほとんど知られていない。しかし「奥の細道」紀行文全分量の中に占める割合は破格に大きい。全昌寺での体験は芭蕉にとって重要だったのだ。この寺に泊ることになった縁は、山中温泉の泉屋の菩提寺がこの寺だったので、泉屋久米之助(門人桃妖)の紹介を得たらしい。全昌寺の住職は、久米之助の大伯父でもあった。
以下、全昌寺のくだりの全文を書き出す。
全昌寺に着いた。中央やや左・山門、左端・羅漢堂、山門右・本堂、右端・方丈。

 ↓山門脇の石碑 「五百羅漢 芭蕉旧跡 曹洞宗熊谷山・全昌寺」
 ↓「この寺はもと山代にあったが慶長二年(1598)大聖寺城主山口玄蕃頭宗永公の信仰を得て大聖寺に移された。
元禄2年(1689)8月俳人芭蕉と曾良が奥の細道行脚の途中ここに宿泊されたその時の句は後に句碑として境内に残っている。
寺宝には杉風(さんぷう)作の芭蕉木像、兆殿司作と伝える絹本着色釈迦三尊十羅刹女図太閤秀吉朱印状等がある。
また別棟に慶応3年(1867)作の五百羅漢像が五百体揃って安置されている。‥‥」

 ↓本堂

杉風作の芭蕉像

↑↓ 「芭蕉坐像 顔いっぱいに笑みをたたえた面相、あごを突き出し、背を丸めて座る。老境に達した芭蕉を個性的に表現した肖像彫刻。像底部に「杉風薫沐作之」(さんぷう、くんもくしてこれをつくる)と刻まれている。全昌寺は芭蕉の泊った寺として知られており、近年、泊ったとされる部屋が茶室として復元された。「庭掃いて出でばや寺に散る柳」の句碑もある。」

 ↓「奥の細道」全昌寺のくだりの全文が刻されている。
 ↓はせを(芭蕉)塚と曾良の句碑の解説文
 ↓左から木圭句碑、芭蕉句碑、芭蕉塚、曾良句碑。
 ↓者勢越(はせを)塚
 ↑右側面の芭蕉句碑は風化で読み取れない。
 塚の左に新しい芭蕉句碑が立っている。
《庭掃ていでばや寺に散柳》
 ↓曾良句碑 《終夜秋風きくやうらの山》
 ↓深田久弥(九山)の石碑






  ↓羅漢堂中央
 ↓圧巻は羅漢堂の五百羅漢像。迫力満点。これは向かって左側の並び。




 ↓右側の並び


〇全昌寺のくだりから曾良随行日記は、曾良の単独行のメモになる。その旅程を見ると、まるで芭蕉のために先行して露払いをしているような感じがする。奥の細道紀行は歌枕を訪ね歩く旅でもあったが、道中の歌枕を調査整理したのは曾良だった。先行する曾良の後を追うように芭蕉が旅しても不思議はない。
『曾良随行日記』 『(8月)五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松ニ、生駒万子為出会也。 従順シテ帰テ、(曾良だけ山中温泉に戻り)艮(即)刻、立。大正侍(大聖寺の当て字)ニ趣(芭蕉と北枝は小松まで行った)。全昌寺へ申刻(さるのこく・午後4時頃)着、宿。夜中、雨降ル。
六日 雨降。滞留。未ノ刻、止。菅生石(敷地ト云)天神拝(★註)。将監湛照、了山。 
七日 快晴。辰ノ中刻、全昌寺ヲ立。‥‥‥
★註 曾良は神道家だった。菅生石部神社は加賀国二宮で有名だったので、曾良は一日足を延ばして同社を参拝しまた全昌寺に戻っている(同寺に2泊)。

0 件のコメント:

コメントを投稿