〇木之本宿から北国脇街道を南下して関ケ原方面に向かう。「姉川の合戦場」の案内標識が見えてくる。芭蕉の時代には何の案内標識もなかっただろう。だから、芭蕉がここで立ち止まり、古戦場として感慨深く見詰めたかどうかは分らない。芭蕉のことだから、姉川古戦場として眺めたことだろう。
〇織田(23.000人)・徳川(6.000人)連合軍と浅井(8.000人)・朝倉(10.000人)連合軍がこの川を挟んで激突した↓橋の上から下流を見る。川原
↓上流を見る。背後の山は伊吹山だが山頂は雲間
↓水流は細い。下流を見る
↓水流、上流。伊吹山は雲間
↓橋の袂に記念小公園がある
〇「元亀元年(1570)6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と織田信長・徳川家康の連合軍が、長浜市を流れる姉川の両岸に布陣し合戦を展開しました。旧陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』によれば、浅井軍8.000人・朝倉軍10.000人で、対する織田軍23.000人・徳川軍6.000人で、午前5時に始まり午後2時に終わったとされています。同書によれば、合戦は28日未明に、この西方に陣した朝倉・徳川軍の間で始まり、最初朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政らが側面から朝倉軍を突き形勢が逆転しました。一方この一帯では浅井・織田軍の間でも戦闘が開始され、最初浅井軍が優勢でしたが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川軍の加勢により、浅井軍も敗退したと伝えられています。‥‥」
〇「元亀元年‥‥陣没者の為に之を建つ」 両軍の戦死者を慰霊している。
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