《奥の細道》《卯の花山(小矢部市の歌枕、曾良は源氏山に比定している)・くりからが谷をこえて、金沢は七月中(なか)の五日(15日)也。爰に大坂よりかよふ商人何処(かしょ)と云者有。それが旅宿をともにす。一笑(いっしょう、芭蕉が頼んでいた金沢筆頭の門人)と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世(享年36歳)したりとて、其兄(一笑の兄)追善を催すに、
(つかもうごけ わがなくこえは あきのかぜ)
ある草庵にいざなはれて
(あきすずし てごとにむけや うりなすび)
途中唫
(あかかと ひはつれなくも あきのかぜ)》『曾良随行日記』 『廿二日 快晴。高徹見廻。亦、薬請。此日、⑤一笑追善会、於□□寺(「一笑塚」のある「願念寺」と思われる)興行。各朝飯後ヨリ集。予、病気故、未ノ刻ヨリ行。暮過、各ニ先達 而帰。 亭主丿松(のまつ?野松(やしょう)か)。』
↓これは忍者寺。この寺の裏に願念寺がある。
↓願念寺
↓ 「松尾芭蕉・小杉一笑ゆかりの寺 願念寺
蕉門の俳人・小杉一笑の菩提寺 境内に一笑塚がある。また、元禄2年(1869)「おくの細道」で来遊した松尾芭蕉が一笑の追悼会に出席し、その死を悼み詠んだ「つかもうごけ我泣く声は秋の風」の句碑もある。‥」
本堂。寺は小さい。
↓ 右・芭蕉句碑「芭蕉翁来訪地 小杉一笑墓所」
《つかもうこけ我泣こえハ秋の風》
左の石碑「木一山 願念寺」
↓ 「一笑塚」↓右側に小さく一笑の句が刻んである。
《心から雪うつくしや西の雲》
↓ 「小杉一笑 一笑は金沢における蕉風の先駆をなした俳人。元禄2年(1869)旧暦7月「おくの細道」紀行で金沢入りした松尾芭蕉は、一笑が前年の霜月6日死去したことを知り慟哭。22日、ここ願念寺で催された追悼会で芭蕉は、「塚も動け我泣く声は秋の風」とその悲しみを詠んだ。この前々年(貞享4年)、近江の人尚白が撰した「孤松集」に一笑の句が194句も入集されているほか、計378句の遺作が伝えられている。芭蕉もその才能に注目していた俳人だったが、会うこともなく他界、享年36歳。「心から雪うつくしや西の雲」」〇芭蕉が《奥の細道》中、金沢のくだりでわざわざ筆を割いたのは(冒頭掲記の通り)金沢到着のその日に何処という者と同宿したことと、一笑の追悼会のことのみ。慟哭の句をみても、芭蕉が如何に一笑と会うことを切望していたかが分る。
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〇寺町寺院群の一つ成学寺にも芭蕉句碑、一笑塚がある。
↓左手前の石が芭蕉句碑らしい。
↓「蕉翁墳」と読める。
この句碑、風化してもう刻字が読めない。《あかあかと日はつれなくも秋の風》と刻してあったらしい。
↓「一笑塚」が人知れずあった。芭蕉が《奥の細道》の文中に書き留めた一笑の追悼会は実は成学寺で行われたのだと主張しているのだろうか。
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