2010年4月22日木曜日

慈尊院

夕闇が降りようとしていた、今夜の宿営地を求めて紀ノ川沿いを遡上していた。そうした時「慈尊院」の道路案内標示が目に入った。突如、そこの国宝・多宝塔にお目にかかりたくなった。ハンドルを右に切り、紀ノ川を渡った。
慈尊院  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「816年、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とした。
高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山・町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。空海の母は835年2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれている。」
慈尊院に着いた時、もうすっかり夕暮れていた。

弘法大師堂
お目当ての「多宝塔」は保存修理工事のため全くその姿を見れなかった。いずれ再訪しよう。




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