古代若狭国は三郡から成る。東から三方郡、遠敷(おにゅう)郡そして大飯郡。国府は遠敷郡の中心、今の小浜市の東郊外にあった。この地図の中央の白い線が国道27号線、その国道を左(西)に数km行くと小浜市街地、右(東)に辿ると近江高島・越前敦賀に至る(上が北・日本海)。右・松永川の造る谷が「松永谷」で左・遠敷川の造る谷が「遠敷谷」。明通寺は松永谷にある。これから行く「神宮寺」は遠敷谷にある。注目すべきは二つの川の合流点付近。「国分寺」はここに現存、「国府推定地」もここにある。ここは古代若狭国の中心地。海も往古はずっと内陸に食い込んでいたろう。小浜は敦賀と並んで古代朝鮮半島との関係が色濃い。写真では南北がひっくり返っている(下が日本海)。右・松永谷の奥に明通寺がある。左・遠敷谷の奥にあるのが神宮寺。二つの谷の間に山尾根が走っている。最近この山のどてっ腹を「若狭西街道」が貫通した。トンネルを潜るとそこは遠敷谷・神宮寺だった。遠敷谷には若狭一宮上社・下社もある。
「神宮寺」には驚かされることが多い。
仁王門・北門
仁王門から本堂境内までは一本の参道が空しく続くだけ。往古参道の両側に堂宇が数十も甍を連ねていた時代があったとは‥
やっと本堂境内の入口に着いた。潜ると受付があるが人の気配がない。見ると、誰も居ないときはぶら下がっている鈴を鳴らしてくれと書いてあるのでチリンチリンさせるが一向に人の動く気配がない。よく見ると、誰も出て来ないときは前の箱に金を置いて拝観券を取って入ってくれとの札が出ている。指示通りにして境内に入ると、目の覚めるような綺麗に手入れされた平坦地が広がる。そして一隅に形の好い本堂。
この本堂、おかしくないか。寺院なのに注連縄(しめなわ)をしている。まさに《神宮寺》の面目躍如。神宮寺を訪れたら、本堂で住職の話を聴かなければ訪れた値打ちがない。ここの住職は只者でない、見るからに異相。修験道で鍛え抜いたような風貌で「役の行者」もかくありなんと思わせる。その話は面白く、凄味がある。神仏混淆時代の仏教の有り様を今の世に偲ばせるに十分な迫力、神仏習合の権化。神宮寺では仏壇に向かって合掌しない、何と(゜o゜)柏手を打つ。二拍手一礼・二拍手一礼が崇仏の姿。祭壇は三つに仕切られ、中央と左側が仏壇、右側に神棚。明治維新時の神仏分離・廃仏毀釈の嵐の中で本堂前の広場に建ち並んでいた社殿・仏閣はすべて取り壊されて「七堂伽藍はガランドウ」だそう、当時の日本人と今のタリバンと果たしてどれだけ違うのかとグサリ。神宮寺は葬式には一切関与しない、檀家はいない、だから運営は苦しいと愚痴も出る。神仏習合時代、ここ遠敷谷の海側に鎮座する若狭国一宮上社(若狭彦神社)・同下社(若狭姫神社)に対して神宮寺は奥の院と呼ばれて取り仕切っていた。両社の御神体は神宮寺に祀られていた。実は御神体は今も神宮寺にあるらしい。神仏分離の嵐の中、神宮寺はどうやら身代わりを差し出して御神体を手離さなかったらしい。そう言えば本堂の内陣は頑丈な格子壁で外陣と仕切られている、住職が格子戸の鍵を開け閉めして内陣を厳重に管理している、その物々しさは異様。きっと御神体を守っているのだ、御神体を奪われたら、神宮寺の命は断たれる。
神宮寺の奇怪さの極みは「お水送り」の祭事を持つこと。奈良東大寺二月堂の「お水取り」の水を毎年その10日前に別に頼まれもしないのに千数百年間送り続けている。小浜(神宮寺)・奈良(東大寺)・飛鳥・熊野本宮は南北に一直線に連なっているそう。
お水送りの祭事については稿を改めて記述。
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