《いこまいけ高岡》 勝興寺
「伏木の高台に巨大な寺院が悠然と建っています。地方都市としては破格の規模と格式を備えた浄土真宗本願寺派の雲龍山・勝興寺(しょうこうじ、順徳天皇勅願所、蓮如上人開基)です。真宗の布教寺院として起源をもつ勝興寺は、幾多の遍歴を経て現在の伏木の地に築かれたのは今から420年前の戦国時代です。戦国の頃、勝興寺は一向一揆の拠点の一つとして、近世には加賀前田家・本願寺・公家とも密接なつながりを持ち北陸を代表する真宗の有力寺院として不動の地位にありました。勝興寺は、広大な敷地や門構えから城のようだと言われています。古代には越中国府が置かれ、戦略上重要であった古国府城の跡地を譲り受けて寺院を建築したためであり、城郭寺院と呼ばれる由縁となっています。近年、7年かけて修復した本堂は、国の重要文化財に指定されています。本堂内におかれた、大蝋燭(通称:デカロウソク)はビックリするくらいの大きさで、注意しないとロウソクだと気付かないほどです。おびただしい寺宝が所蔵されています。「勝興寺の七不思議」は、興味いっぱい、是非見てください。現在、第2期修理保存工事(平成17年~29年までの13年間)のため書院などの本坊および御霊屋の見学は出来ません。本堂、唐門、経蔵、納骨堂、鐘楼の見学は可能です。」
唐門
京都「興正寺」の唐門を移築したとある。これを読むまですっかり忘れていた、京都の故「隆吉」伯父さん(京大医学部名誉教授)の長女「昭子」さんが興正寺に嫁入りし裏方・坊守となっていたことを。
興正寺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「興正寺(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗の寺院。山号は円頓山(えんとんざん)。西本願寺の南隣に位置する。かつて西本願寺の脇門跡であったが、1876年(明治9年)に真宗興正派として独立した際に、同派の本山となる。住職は門主の華園家。本山だけあって大伽藍であるが、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部と見まがう。また西本願寺の御影堂があまりに大きいため、興正寺の伽藍が比較的小さく感じられるが、実際には堂々とした規模である。1205年専修念仏は停止され、開祖である親鸞は越後に配流されたが、1211年に赦免された。寺伝によると、親鸞は赦免された翌年の1212年に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し「興正寺」と名づけたとし、その後、親鸞はこの寺を弟子の真仏上人(第二世)にまかせ、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。しかし、真仏は親鸞が関東教化に遊行した際に下野国(現在の栃木県)に建てた専修寺を任されているなど、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには根拠に乏しく、一般的には越後より直接関東方面へ旅立ったとする説が有力である。興正寺草創の寺伝では、第七世了源により親鸞が創建と伝える。実際には、京都の五条西洞院にあった親鸞の住坊を1321年(元亨元年)頃に、了源が移転するなどして寺院として開いたのではないかと言われている。順徳天皇から聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、これより寺号を「興正寺」とし真宗念仏宣布の根本法城とした。1328年前後、了源は、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に移すべく寺基を京都汁谷(渋谷)(しぶたに)(現在の京都国立博物館の辺り)に移し、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れた。この頃「阿弥陀佛光寺」の勅号を後醍醐天皇より賜る。この寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来し、これを縁に山科より京都渋谷に寺基を移したとも言われる。その後、寺基を洛中東山に移し佛光寺は益々隆盛となったが、それとともに天台宗・延暦寺の弾圧が強まった。第13世光教の時には応仁の乱に巻込まれ諸堂を焼失。さらに1481年には、14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として創建、有力末寺と共に当時山科にあった本願寺に帰参した。残された佛光寺の寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。蓮教は本願寺の蓮如と力をあわせて念仏弘通に奔走したが、1532年8月、山科本願寺と共に兵火にかかって興正寺は焼失。1569年、興正寺に本願寺顕如の次男顕尊が入寺し、石山本願寺の脇門跡に任ぜられる。1585年第15世蓮秀は幸いにつつがなきをえた真影を供奉して、天台宗の寺があった大阪天満の地に、広大な堂舎を配した天満本願寺と共に真宗興正寺として法燈をかかげた。1591年第十七世顕尊(本願寺門主・顕如の次男)の時に、豊臣秀吉による都市計画の一環で、本願寺と共に寺基を再び洛中の七条堀川に移す。この寺地には時宗市屋派本寺の金光寺があった。このように蓮教以来、興正寺は本願寺と行を共にしていたが、1876年(明治9年)、第二十七世本寂は興隆正法の実を挙げるべく、真宗興正派として独立した。ただし本願寺派に残留した興正寺末寺も少なくなかった。本堂は起工から128年の年数をかけ、日光東照宮の本廟・知恩院の三門とともに、日本三建築の一つと称せられた壮大華麗な大伽藍であったが、1902年(明治35年)11月、不慮の火災により、本堂その他ほとんどを灰燼に帰する不幸が起る。第28世本常は直ちに再建の工を起こし、1912年(明治45年)、現在の両堂大伽藍が同寺地に完成した。
鼓楼
手水舎
天から降った石。石で打つと金属音がする
実ならずの銀杏
本堂
鐘楼
経蔵
水のかれない池
納骨堂
屋根を支える猿。と言うがどう見ても猿の面ではない、天の邪鬼あたり
三葉の松
本坊(式台・書院等)、式台門、御霊舎等は工事中、残念
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