京都バス旅行の話はまだ中途なのだが、また週末が来てしまった。女房が金曜日の朝に「お父さん、今日出かけるの?今週は何処へ行くの?」と訊くので、「東は大雨だというから西へ行く、多分明日の朝出かける」と答えてしまった。土曜日の早朝目が覚めると豪雨は去っていた。何せ金曜日の集中豪雨はひどくて、TVの全国ニュースに「石川・七尾」の文字と画像が躍ったのだ。参院選の期日前投票、こいつを金曜日に済ます予定が果たせなかった。日曜日夜のTV報道を楽しむためにはこいつを済ませておく必要がある。それで旅立つ前に市役所に寄って投票を済ませた。ために出発が遅れた。この遅れが今日の日程行き先を決めた。先ずはかねて探訪し残して気掛かりだった「賎ヶ岳」登山をする、昼下がりに到着する。山頂へはロープウェイで登るんだが、一度挑戦してリフトの発着場を発見できず終いになったことがある。今回は見落とすまいと注意して走ったので難なく発見できた。木之本ICから意外と近かった。
リフトの山頂下り場に着いた。賎ヶ岳の標高は約460m。山頂までは350mほど歩く。
下りて直ぐの展望所から見た奥琵琶湖
これらの石地蔵はあちこちに分散していた、それを「大音(おーと)」の村人が一箇所に集めて合祀するようになったそう。
兜を被った石地蔵が何体もある。ヒコニャンの様でカワイイ。
山頂へは尾根伝いに勾配を登って行く
小谷山が見える
この地図は90°回転している。賎ヶ岳から見て余呉湖は真北、琵琶湖は南西方向にある。
山頂に到着。竹生島が見える
山並みの最先端に山本山(やまもとやま)がある。右側が琵琶湖
小谷山がうっすらと見えている。羽柴秀吉が、柴田勝家軍が動いたと知るや否や間髪入れずに大垣城を発ち脱兎の如く賎ヶ岳に駆けつけて来た、その方面を俯瞰している
敗軍の将ではないそう。とにかく疲れるに違いない
余呉湖。この小さな湖の周囲で凄惨な殺戮戦が展開された。左の山岳地帯に柴田軍が陣地を構え、右の山々に羽柴軍が陣地を構えた。陣地戦をやるに当たり柴田勝家のハンディはきつかった。雪の木の芽峠を越えねばならなかった。春にならねば出陣できず、秋になれば撤退せねばならなかった。
山頂
余呉湖の東岸に低い山並が展開する。この山並の中にある大岩山に秀吉方の武将「中川清秀」の城砦があった。その砦を、勝家の甥にあたる「佐久間盛政」が不意に襲撃して賎ヶ岳合戦が始まる。盛政は余呉湖の西岸に展開する高い峰々の一つ、行市山に陣取っていたが、夜半に賎ヶ岳を通過して払暁大岩山に奇襲を掛けた。余呉湖を南回りに半周したことになる。
余呉湖西岸の峰々。
この山岳地帯に勝家方の諸武将が砦を構えた。手前の峰が行市山で佐久間盛政が陣取った。奥に向けて前田利家、柴田勝家の陣取った峰が続く。勝家が越前北の庄を発したのが天正11年3月5日、9日に余呉郡柳ヶ瀬に着陣し直ちに余呉湖西岸の山岳地帯に展開した。佐久間盛政は血気に逸り、伯父の勝家に奇襲戦法を進言した。勝家は却下したが、しつこく迫るので条件を厳守することを約束させて許した。条件とは、深入りしないこと、戦果を挙げたら速やかに退却すること。勝家は、秀吉が成り上がる過程を具に見聞していてその知略と武力の凄味を知悉していた。しかし盛政は若かった、秀吉を成り上がり者と見下していた、秀吉の実力が見えなかった、それを勝家は危惧した。盛政が行市山を出たのが4月20日午前1時、賎ヶ岳を経由して余呉湖東岸大岩山の中川清秀の陣地に奇襲を掛けたのが払暁。清秀は奮戦したが支えきれずに戦死。盛政は勝ち誇り、さらに戦果を拡大することを狙い余呉湖東岸に留まった。勝家は伝令を飛ばし直ちに撤退するように命じた。盛政は何度伯父から督促されても撤退しなかった。勝家は焦った、盛政の軍は本軍から突出し過ぎている、しかも進退する道は賎ヶ岳の尾根伝いの一本道、秀吉軍に遮断され総攻撃を受ければ一溜りもなく瓦解する。総崩れで退却する盛政軍を追撃して柴田方陣営に雪崩れ込んで来る秀吉軍の勢いはもう止められない。果たして秀吉の行動は天魔の如く迅速だった。4月20日午後2時大垣城を出陣、夜半には全軍が木ノ本に着陣。21日午前2時秀吉自ら先頭に立って出撃し賎ヶ岳一帯で盛政軍を撃破。このとき秀吉の周りで奮闘した若武者共が有名な「賎ヶ岳の七本槍」。盛政が秀吉軍のただならぬ動きを知ったのは、夜になり松明の火が延々と伊吹山の麓から木ノ本まで続く信じ難い光景を目にしたとき。盛政はようやく事態を悟り退却を開始したが時既に遅かった。退却戦ではなく逃避行であり、逃げ遅れた者はただ討たれるだけのこと。逃げる盛政軍を追尾して秀吉軍は勝家方の諸陣地に雪崩れ込み蹂躙していった。前田利家は佐久間盛政と柴田勝家の陣取る峰の中間の峰に陣を敷いていたが、秀吉が現れたと知るや戦わずに陣を払い粛々と越前武生の領地を目指して去った。勝家の本陣がある山の裾を通過していった。浮足立った勝家軍はもはや秀吉軍の敵ではなかった。身代わりを申し出た家臣に手を合わせて勝家は供廻りの者達と戦線を離脱し越前北の庄を目指した。秀吉の追撃は神速だった。秀吉は利家が籠る武生城に単身乗り込んで対戦に至った経緯を一切水に流すと、北の庄で勝家の居城を包囲した。勝家はお市の方と共に天守閣で爆死した。それが4月23日のこと。この世のことは一場の夢。
山頂にひっそりと建つ「史蹟・賎ヶ岳」の石碑。合戦当時の賎ヶ岳はススキとクマザサに覆われた山だった言い伝えられている。
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