目覚めは05:50。かなりの雨で出立の機先を削がれた。グズグズと出発。気合いが抜けてPA、SA毎に入り込んで休憩。雨は益々酷くなる、風雨となる。由比PAで掃除婦の姉さんが教えて呉れたが、台風が来ているそう。僕は能天気状態で全然知らなかった。もう今日はすっかりやる気なし。今「牧の原SA」に居るが一歩外に出れば寸秒でずぶ濡れになる風雨の下。引き籠もり状態。今日の目標はとりあえず先ず浜松西ICで下りて「三方ヶ原古戦場」探訪から始めてみようと思っていたんだが、これでは進行してもとても無理。多分ここに一日留まる。Netに繋がらないのが残念、大SAなのに。
三度目のうたた寝から目覚めたのが15:30。牧の原SAの空が明るい、雨が完全に止んでいる、風は少々残っているが。出発を決意。
17;00、町名「三方ヶ原」という交差点に達した。四方八方住宅地で往年の面影などかけらもない。家康の時代も広大な平原だったろう。この平原の何処で信玄と家康は布陣し決戦したものか、合戦場所の決定に必然性はあった筈。街道が着目点。国道257号線が南北を貫いている、「金指(かなさし)街道」という名もある、これは古道だろう、浜松に真っ直ぐ通じる。家康はこの道を北上した筈。信玄は茅野の杖突峠を越え高遠を通り分杭峠を越えて秋葉街道を南下した。この街道は真っ直ぐ南下すれば浜松に通じる。衆目は、信玄は南下を続け浜松城を落としてから信長との決戦に臨むと見ていた。しかし信玄は浜北で直角に折れて西進した、今の国道306★号線に入った。家康・浜松城をことさらに無視して見せた。家康は武将の沽券に懸けて城外決戦を挑んだ。信玄は受けて立った。いわゆる三方ヶ原の合戦。二つの街道は石岡という在所で交差する。合戦場は石岡の南で当時ほぼ原野であった所。金指街道の東側に「三方ヶ原小学校」と「三方ヶ原中学校」が立地している。ここは信玄の進軍路から見て南に偏り過ぎている。「三方ヶ原」という交差点は学校からさらに南なので合戦場所たりえない。学校からかなり北上すると四方を低山に囲まれた広大な平野が開けている。この平原だったろう、徳川軍が鎧袖一触、武田騎馬軍団に粉砕されたのは。因みに「三方ヶ原古戦場」の案内表示はどこにも見当たらない。多分今となっては古戦場を比定できない。
明日は設楽ヶ原古戦場を探訪するため奥三河の山奥の道の駅を目指した。「道の駅・鳳来三河三石(ほうらいみかわさんごく)、そこで泊まる。
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