9月19日(日)07:15、加西SA出発。中国自動車道を西進し萩市を目指す。運転にバテるとSA・PAに跳び込んで気晴らし。昼寝抜きで山口県美禰JCTに至る、13:00近かったか。先ず「秋芳洞」へ。子供達が小さい頃に来たことがあるが当時間の悪いことにカメラの電池切れで写真を撮れなかったので再訪。黒谷口(裏口)から入って表口に顔を出し、また逆戻りした、往復2km、洞を出たのは15:30頃か。沢山撮った。その後、秋吉台のカルスト地形の写真も撮った。秋吉台の展望台に来てみて、あぁ、子供達とここに来たことがあると思い出された。カルストロードをドライブして萩市へ。萩到着はもう17:00近く。今日は萩城跡だけを探訪。萩城は不思議な構造の城。海に突き出た指月山(しづきさん、標高160mほど)の麓の平地に一直線に運河を通して陸と遮断したうえで防護の石塁を築いて外郭の守りとし、さらにその内側に濠を掘り石垣を築いて内郭の守りとしていた。内堀の一角に天守閣が聳えていた。城郭の背後の守りは指月山。この山上にも小規模ながら本丸・二の丸などが築かれていた。萩城は山城兼平城だった。毛利藩は関ヶ原の戦いで西軍に属して一応敗軍となったため中国地方の太守からいきなり防長二州の田舎大名に貶められた。主従ともども安芸・広島を引き払い辺境の萩に城を築き城下町を整備した。いつの日か徳川軍と雌雄を決するときがまた来ることを、毛利藩は念頭においた。防長二州一円で最強の防禦陣地として浮上したのが、萩の指月山、運河で陸から切断すれば鉄壁の構えとなる指月山だった。広島から萩に移転した毛利家臣団が徳川軍を敵と想定し、日に夜をついで城を築き城下を建設していったその懸命さが胸に伝わってくる城跡だった。夢中で歩き回っているうち宵闇が下りた。写真を沢山撮った。因みに毛利家臣団は徳川に対する怨念・闘争心を維持したまま幕末を迎え、そうして爆発した。それは、島津・薩摩藩も立場経緯は同様だった。毛利藩も島津藩も、関ヶ原での怨念を260余年後に晴らしたのだ。家康の惧れは的中した。薩摩(島津)も長州(毛利)も凄まじい家臣団を抱えていたもの。伝統あるものが歴史を創るということか。
今夜は、直ぐに発見できた道の駅「萩シーマート」に泊まる。Netに繋がらないのは癪(`´)。延べ走行距離数は985km。歩行数は14,000歩。明日は早朝に萩の街を散策して、早々に九州に入る。大分県・宮崎県経由で鹿児島まで行くつもり。
【追伸】二女のメールが来てたf(^_^;)「件名:ぬお!!」「なぜ電話をしない~!!メール今見ましたよ…。今日(土)は当直で今病院やけど昼間は午前病棟回って午後からふらふら買い出しに行って部屋でのらくらしてたのに~。今はどこにいるのかしら。一応明日明後日は当直ないから動けるわよ~?ちなみに8月には休みもらってちょっくら海外逃亡してました。今夜は無事に眠れますように、当直がんばります~。○○こ」
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