2016年8月31日水曜日

〇8-16(火) 茨城県下妻市「重文・大宝(だいほう)八幡宮本殿」

↓大宝八幡宮・一の鳥居
↓セレナ君を木陰に休めている。左奥に二の鳥居が見える。
↓三の鳥居
↓「大宝八幡宮 ご祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)・足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)であって、国土鎮護の神として古くから崇拝されてきた。社伝によれば、大宝元年(701)に藤原時多忠卿が宇佐八幡宮を勧請したものといわれ、その後、源頼義が奥州征伐のときに祭祀田を寄進しまた源頼朝が奥州征伐に際して鎌倉八幡宮を勧請したのが摂社若宮八幡社と伝えられている。徳川時代に将軍から115石の朱印地を寄進されている。さらに光格天皇御宸筆の額と御紋章幕が下賜され、明治時代には北白川宮から幣帛料を賜り県社にも列した。本殿は桃山時代に下妻城主多賀谷尊経が再建したもので、現在、国の重要文化財に指定されている。」
↓神門、と思いきや、
↓門を守るのは仁王・金剛力士ではないか。仁王は仏法の守護者。ということはこの門は寺院の仁王門ということになるんだが。
↓常設相撲場がある


↓宝物殿


↓拝殿
↓神楽殿
↓摂社・若宮八幡宮 源頼朝が奥州征伐のとき、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという。
↓神馬舎
↓祖霊殿
↓鐘楼(左側)まである
↓「大宝八幡宮本殿 旧県社。祭神は誉田別命(応仁天皇)・足仲彦命(仲哀天皇)・気長足姫命(神功皇后)の三柱。社伝によると、701(大宝1)年、藤原時忠が筑紫の宇佐八幡宮を勧請創建したといわれるが、天台宗の古い経文の奥書に『1179(治承3)年巳亥7月22日未時書了。於常陸州下津間八幡宮書了・兼智』とあるから、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかる。本殿は1575(天正3)年焼失、1577(同5)年に下妻城主多賀谷尊経公が再建したことが、本殿回廊の高欄擬宝珠によって知られる。‥‥」
↓本殿・重要文化財






↓本殿を背後から見る
↓拝殿の奥の・本殿を拝する部分が見えている。右手前の建物は本殿の基礎。
〇午後二時、八幡宮発。下道をひたすら西北に進路をとり、佐野ICで東北自動車道に入り北進。北進が渋滞を避ける妙策で(東北自動車道を南進すれば必ず渋滞に嵌る)6kmばかり北進して入舟JCTから北関東自動車道に入ってひたすら西進。高崎JCTから関越自動車道に乗り換えて北進し、長岡JCTで北陸自動車道に入りひたすら西進して戻って来た。以上渋滞一切なし。糸魚川通過が午後七時、七尾到着が午後九時。今日一日文化財探訪とセレナ君の運転に徹し、これ以外に時間をビタ一分も使わなかった見事な旅程。食事を摂るのも忘れていた。

〇8-16(火) 茨城県龍ヶ崎市「重文・来迎院多宝塔」

↓仁王門


↓本堂
↓「国指定重要文化財・多宝塔 この多宝塔は室町時代後期の建築物で、関東以北では現存する最古の塔といわれている。16世紀に江戸崎城主土岐治英が建立したとされ、‥‥‥」
↓重要文化財・多宝塔






2016年8月30日火曜日

〇8-16(火)千葉県印西市「重文・宝珠院観音堂(光堂)」 印西市三箇所目の重文御堂

〇印西市での三件目の重文・御堂の探索には最も苦労した。想定上の入口と実際の入口の乖離があり過ぎて、入口が目に入らなかったらしい。さんざセレナ君と走り回った末に、入口の三軒隣の民家の人の懇切な説明を聴いても分らなかったぐらい。五軒隣の民家の人に訊いたら「よくぞ光堂のことをきいてくれなさった」と嬉しそうに入口まで案内してくれた。
 ↓これが入口と参道。左側は畑。これが寺院の入口だとは‥‥
 ↓突き当って右折して直ぐに左折すると椿の道が続く
 〇在ったァ 観音堂(光堂)

 〇室町後期の建立 禅宗様式の建物

 ↓裏側
 ↓側面


 ↓御堂正面に参道の石段がある
 この参道の登り口を探索するのは不可能に近かった。
〇すったもんだの末にとにかく印西市の重文・三御堂の探訪を終えた。