↓大宝八幡宮・一の鳥居
↓セレナ君を木陰に休めている。左奥に二の鳥居が見える。↓三の鳥居
↓「大宝八幡宮 ご祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)・足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)であって、国土鎮護の神として古くから崇拝されてきた。社伝によれば、大宝元年(701)に藤原時多忠卿が宇佐八幡宮を勧請したものといわれ、その後、源頼義が奥州征伐のときに祭祀田を寄進しまた源頼朝が奥州征伐に際して鎌倉八幡宮を勧請したのが摂社若宮八幡社と伝えられている。徳川時代に将軍から115石の朱印地を寄進されている。さらに光格天皇御宸筆の額と御紋章幕が下賜され、明治時代には北白川宮から幣帛料を賜り県社にも列した。本殿は桃山時代に下妻城主多賀谷尊経が再建したもので、現在、国の重要文化財に指定されている。」
↓神門、と思いきや、
↓門を守るのは仁王・金剛力士ではないか。仁王は仏法の守護者。ということはこの門は寺院の仁王門ということになるんだが。
↓常設相撲場がある
↓宝物殿
↓拝殿
↓神楽殿
↓摂社・若宮八幡宮 源頼朝が奥州征伐のとき、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという。
↓神馬舎
↓祖霊殿
↓鐘楼(左側)まである
↓「大宝八幡宮本殿 旧県社。祭神は誉田別命(応仁天皇)・足仲彦命(仲哀天皇)・気長足姫命(神功皇后)の三柱。社伝によると、701(大宝1)年、藤原時忠が筑紫の宇佐八幡宮を勧請創建したといわれるが、天台宗の古い経文の奥書に『1179(治承3)年巳亥7月22日未時書了。於常陸州下津間八幡宮書了・兼智』とあるから、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかる。本殿は1575(天正3)年焼失、1577(同5)年に下妻城主多賀谷尊経公が再建したことが、本殿回廊の高欄擬宝珠によって知られる。‥‥」↓本殿・重要文化財
↓本殿を背後から見る
↓拝殿の奥の・本殿を拝する部分が見えている。右手前の建物は本殿の基礎。
〇午後二時、八幡宮発。下道をひたすら西北に進路をとり、佐野ICで東北自動車道に入り北進。北進が渋滞を避ける妙策で(東北自動車道を南進すれば必ず渋滞に嵌る)6kmばかり北進して入舟JCTから北関東自動車道に入ってひたすら西進。高崎JCTから関越自動車道に乗り換えて北進し、長岡JCTで北陸自動車道に入りひたすら西進して戻って来た。以上渋滞一切なし。糸魚川通過が午後七時、七尾到着が午後九時。今日一日文化財探訪とセレナ君の運転に徹し、これ以外に時間をビタ一分も使わなかった見事な旅程。食事を摂るのも忘れていた。