朝七時「木津みどりの一里塚」出発。直ぐに奈良市街地に入り、市街地を斜めに突っ切り大和郡山市街地へ。
斑鳩の里は近かった。岡の上から斑鳩の里に下りた途端、法起寺の「国宝・三重塔」が眼前に浮かんだ。それが、朝日を真横から受けて垂直な構造の東面が輝き北面が翳って見事なコントラストを描いてボクの目に感動を喚んだ。セレナを急停車させてボクは撮影ポイントを探索した。すると塔の前面にコスモスの花が一面に咲き乱れている畑が展開している。まるでボクを待っていたような構図だった。勿論撮った。このコスモス畑、どうやら行政に協力して種を播いたように思える。休耕して荒かすよりも花を咲かせて世界遺産の環境を美しくしましょう、そのために種は支給・助成します、その行政の思惑に農民魂が応えたという呼吸がボクには感じられた。こうして時を稼いで法隆寺の大駐車場に着いたのが八時。しかし未だ開いていなかった。仕方なく法隆寺参道の松並木を走り、右折して細い旧道に入り、法隆寺東院・夢殿、中宮寺前を通過し、法輪寺まで来てしまった。法輪寺は「国宝・三重塔」を昭和19年に落雷で焼失している。今旧態通りの姿の三重塔が再建されている。当然国宝指定は解除されている。この法輪寺の前に斑鳩町営の大駐車場があった。一日駐車しても無料。法輪寺の受付開始は九時。ボクはセレナを町営駐車場に預けて法隆寺に向かって歩き出した。東院伽藍・夢殿の門前に着いたのが八時半、丁度門は開いていた。早速入門。一直線に夢殿の石段を上がり八角建物の一角、「救世観音」の直前へ。針金格子戸の
格子から透かし見ると、祭壇を普段覆っている垂れ幕が、丁度少女の前髪が左右に分けられているように左右に分けられ幕の中ほどで小柱に結わえられている。そして少女の額の部分に夢に見た「救世観音」が立っていた。朝陽の射す角度が適しているのか「救世観音」はくっきりと見えた。本の写真で見る通りの姿・印象だった。ボクは針金格子に目をくっ付けて食い入るように「救世観音」を観察し続けた。拝観者が二、三人現れたが、直ぐに淡白に立ち去って行く。朝一番は三文の徳があった。ボクはひとしきり「救世観音」を独占できた。強く見過ぎて目の奥が痛くなったので夢殿を後にした。悔いはなかった。そのあと西院伽藍の周囲をひと回りした。伽藍の中に入ると時間を喰い過ぎるので今日は遠慮した。法輪寺まで歩いて戻ったら九時半。入門し講堂の古仏達を拝観。法隆寺金堂の国宝諸仏と全く同じ古い様式の木造仏。その全く同じ古様式という点に感銘。これら木造仏は法隆寺金堂の金銅仏達の金型だったのではないかと一瞬思ったほど。法輪寺講堂の仏像は一見の価値がある。妙見堂の秘仏・妙見菩薩も開帳されていた。妙見とは北辰・北極星のことだそう。この菩薩像は変哲がない。十時半、斑鳩から京都嵯峨野に飛んだ。霊宝館の「国宝阿弥陀三尊像」に会うため。これまで二度、霊宝館の閉館時季に訪れていた。が、今回は調査万端抜かりなくやっと三度目の正直となった。入館するといきなり入口に「国宝阿弥陀如来坐像」と脇侍の「国宝観音菩薩坐像」「国宝勢至菩薩坐像」が坐って並んでいた。重厚・荘重で圧巻。向かいには「重文文殊菩薩騎獅像」「重文普賢菩薩騎象像」が並んでいる。いきなり本命を出入口に配置する大胆な手法には驚かされる。次の大広間に入ると、釈迦十大弟子像、四天王像、毘沙門天坐像、トバツ毘沙門天立像などが居並ぶ。どの像も鑑賞に耐えるものばかり。二階の展示がまたすぐれもの。本堂・釈迦堂本尊の「国宝(清涼寺式)釈迦如来立像」の胎内物が国宝として展示されている。興味津津となる。「国宝・宋画十六羅漢図」の模写画も面白い。本物は東京・京都の国立博物館に寄託されている。ボクが最も注目したのは「(本堂)宮殿(くうでん)天井・十二天扉絵」。これは江戸時代初期に本堂が消失した時に焼け残ったものだそう。一面墨を流したように黒ずんでよく見ないと絵が見てとれない。しかしじっくり見るとすべての絵が見えている。その絵が素晴らしい。恐らく邦人の手になるものではない。格調高く最高級の絵が黒ずみの下に透けて見える。八曲の屏風のようにして立ててある。このあと清涼寺境内を巡回し、それからまたも「化野(あだしの)念仏寺」探索を試みたが、今回も失敗した。どうせ陰気臭い光景を目にするだけだろうから、この寺の探索はもう止めようかと。七尾到着、午後六時四十分。今回の無宿流浪の旅は中味が濃かった。とにかく無事に帰れて何より。
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