〇奥の細道では日光山を発った芭蕉と曾良の旅程を次の通り記述している。
「那須の黒ばねと云(う)所に知人(しるひと)あれば、是(これ)より野越(のごえ)にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥(はるか)に一村を見かけて行(ゆく)に、雨降(あめふり)、日暮(ひくる)る。農夫の家に一夜をかりて、明(あく)れば又野中を行(く)。」
〇この「農夫の家に一夜をかり」た村が玉生宿。この玉生宿までの旅程が複雑。その複雑な旅程は、曾良の随行日記に書き留められている。道筋案内は、仏五左衛門の教えを受け容れた。日光街道をたどらず、日光山の麓から日光街道の北の道を行く。瀬尾で会津西街道に入る。川室で右折して大渡(おおわたり)で絹川(鬼怒川)を仮橋で渡って(ここ以外は船渡しだった)日光北街道に入るという道筋。日光北街道沿いに玉生宿があった。二人は玉生宿を目指して来たわけではない。ここで日暮れて力尽きた。
〇曾良の随行日記によると「船入より玉入(玉生)へ二里。未の上剋(上刻)より雷雨甚強(はなはだつよし)。漸く玉入へ着(く)。同晩、玉入泊。宿悪(やどあしき)故(ゆえ)、無理に名主の家(に)入(り)て宿か(借)る。」 芭蕉は「農夫の家に一夜をかりて」と一言で済ませているが、実はこんな経緯があった。当初泊まろうとした宿屋はよっぽどひどかった。宿を借りた「農夫」とは「名主」で、苗字は「玉生(たまにゅう)」さん。
〇ボクは随行日記記載の通りのコースを辿ろうとしたが失敗した。瀬尾から会津西街道に入るところまでは旨くいったが、西街道を川室で右折して大渡を目指すことにしくじった。西街道を北上して何と鬼怒川温泉まで行ってしまった。鬼怒川温泉が大温泉街に発展しているのに感心。温泉街を通過してしばらく行くと、右折=玉生の案内標識が出た。本当は今回の旅行の趣旨からいうと、川室まで戻って芭蕉と曾良の歩いた通りのコースを辿るべきだったが、夕暮れの気配に追われていたのでそのまま山越えのコースに入った。進めば進むほどに芭蕉と曾良が絶対に選ばない高い山越えルート。漸く里道に降りてきたらそこが玉生の在所でホッとした。
〇ここから夕暮れの中でのボクの一仕事が始まった。
↓方向感覚を失って玉生の在所をウロウロしていたときこの案内を発見。「日光北街道・玉生宿」 ここでセレナを停めてナビ検索をしたら何とまさにこの地点に「松尾芭蕉碑」があることになっている。降りて辺りを探索したが見当たらない。そこでこの石垣の家を訪ねた。「この辺りに松尾芭蕉の碑があると聞いたんですがご存知ですか」 若い嫁さんが「お父さ~ん」と呼んで替わる。親爺さんは親切に教えてくれた。「あることはあるが、素人が勝手に建てたもの(権威は全くない。訪ねるまでもない)」「日光北街道はウチの前を通っていた。案内板はワシが立てた」「芭蕉が一泊した名主の名は玉生さん。この辺り一帯の地主だった。ウチは玉生さんの敷地の一部に建っている。」 どうやらこの親爺さん、松尾芭蕉一宿の地の碑は自分の手で自分の敷地に立てたかったよう。それでも碑の在り処を教えてくれた。150mほど離れているらしい。
行ってみると簡単に問屋が卸してくれない。夕闇が降りてくる中、やっとこさ入口の手掛かりを得た。この標識は道端の見える所に取り付けられていたと思われるが、ボクが発見したのは民有地の奥。そこに転がされて裏返っていた。
標識が転がっていた近くの小道を入ると、石碑らしきものがあった。
「芭蕉一宿之跡」と刻してある。日付は「元禄二年四月二日」 この日は芭蕉と曾良が日光を発ったまさにその日。
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