《 小松と云う所にて
しほらしき名や小松吹く萩すゝき
此の所太田の神社に詣ず。実盛が甲、錦の切れあり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給ふとかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹き返しまで、菊から草のほりもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形打ったり。実盛討ち死にの後、木曾義仲願状にそへて、此の社にこめられ侍(はんべ)るよし、樋口の次郎が使ひせし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす 》
拝殿↓「芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが三百年前の元禄二年(一六八九年)七月二十五日(九月八日)であった。七月二十七日小松を出発して山中温泉に向かう時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす 芭蕉
幾秋か甲にきへぬ髭の霜 曾良
くさずりのうち珍しや秋の風 北枝 」
〇北枝は金沢からここまで付いて来ていたが、何と彼は越前松岡「天龍寺」まで同道する。奥の細道所載の
《物書きて扇引きさく余波(なごり)哉》
の句は、松岡・天龍寺での別れの場面で詠まれた。↓芭蕉句碑
↓《あなむざん甲の下のきりぎりす》
「むざんやな」は推敲の末。
↓宝物館があった。この中に兜や錦の切れがあるようなら是非拝観せねばと思ったが、由緒書きを読むと、それらの現存について触れていない。多分今はない、そう思ったので素通りした。休日で、わざわざ鍵を開けて貰うのも気が引けた。↓摂社・松尾神社がある。観察したところ、松尾芭蕉と関係なく、京都の松尾大社からの勧請社だと見受けられた。
〇曾良随行日記によると、芭蕉一行は太田神社に二度参っていることが分かる。
《廿五日(小松到着の翌日) 快晴。‥‥多田八幡へ詣でて真(実の誤記)盛が甲冑・木曾願書を拝す。‥‥》
《廿七日 快晴。‥‥(門人達が来て留めようとするが立つことに)‥八幡(多田八幡のこと)への奉納の句有り。真盛が句也。予・北枝之に随う。》
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