〇芭蕉が福井で洞哉宅を訪ねて会う場面は、奥の細道の中でも出色の情趣の深い章である。
〇奥の細道《福井は三里計(ばかり)なれば、夕餉したゝめて出るに、たそかれの路、たどたどし。爰(ここ)に等哉(とうさい)と云う、古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋ぬ。遥(はるか)十とせ余り也。いかに老いさらぼひて有るにや、将(はた)、死にけるにやと、人に尋ね侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ。市中ひそかに引入りて、あやしの小家(こいえ)に、夕がほ・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝきぎに戸ぼそをかくす。さては此のうちにこそと、門を扣(たたけ)ば、侘し気なる女の出て「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは、此のあたり何がしと云うものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋ね給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋ねあひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等哉も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折(しおり)とうかれ立。》
↓左内公園。橋本佐内の墓がある。等哉宅跡は、左内の銅像の横にあった。
↓橋本佐内の銅像
↓橋本佐内の墓
↓等(洞)哉宅跡
「芭蕉宿泊地・洞哉宅跡」
↓「芭蕉宿泊地洞哉宅跡」
「松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅の途中、福井の俳人洞哉を訪れたのは、元禄2年8月11日(1689年:陽暦9月24日)のことだといわれます。この洞哉という人がどのような人物であったかはあまり知られていません。芭蕉の死後約100年後の寛政4年(1792)、福井の俳人達が百回忌の法会を営みました。その時の記録の中に、「洞哉という人は、貧しい暮しをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い木片をもらってきて芭蕉の枕とした。」(祐阿『道の恩』寛政4年)という話があります。このような人柄が、芭蕉に気にいられたのか、芭蕉は洞哉の家に2泊したのち連れ立って敦賀へと向かいます。」↓「‥‥洞哉の住んでいた家の正確な場所ははっきりしていませんが、俳人石川銀栄子氏の研究から、洞哉が芭蕉の枕にと木片をかりたお堂が、左内町の顕本寺に建てられたことが明らかになり、この付近に住んでいたことがわかりました。‥‥」
「名月の見所問ん旅寝せん」
↓左内公園の道を挟んで向かいにある顕本寺
↓「此の堂に縁由ある口碑のあらましをしるさむに 今より二百三十年余前元禄己巳の秋 俳祖芭蕉翁か 穏士等哉坊にまみゆとして 名月の見所問むの句あり 此の時のことにや 近き寺院に番神堂建立の作事小屋より木片を請ひ来て仮の枕に当たるを後世に伝へ 寛政の頃祐阿坊なる俳人京師え携行て祖翁跌坐の一体を刻せたりと そも此の堂は元禄当時のものにあらずとも起工の古を知へく 又等哉の侘住居のこの辺りなりしをしのひ茲に記るすことなり」
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