〇「白河の関」に着いた。市街地から遠い。
↑「白河関は、古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政12年(1800)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。‥‥」
正面真っ直ぐに進むと「白河神社」に至る。
白河神社拝殿
本殿
〇古歌碑。「白河の関」は有名な歌枕であることがこれらの古歌で知れる。中でも能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」は名歌として有名。能因法師はこの歌を都の我家で詠んだらしい。ところが歌が余りに有名になり過ぎて、陸奥往復に要する月日が経たないうちは外出もままならず、蟄居しながら庭でわざわざ日焼けさせて程よい頃に外に出たという話がある。
空堀跡。白河の関は空堀と堀から掻き揚げた土塁で囲まれていた。
土塁跡
関所内
土塁の上
「奥の細道白川の関」碑。芭蕉の「奥の細道」白河の関の段章が書かれている。
「旗立の桜」。源義経が平家追討のため鎌倉に上るときここで旗揃えをし、桜に旗を立て掛けたという伝承があるが、その時の桜は今は枯れてしまっている。
源義家が安倍貞任討伐のためこの地に来た時(前九年の役)、ここの楓に幌を掛けて休息したという伝承があるが、その楓も代が代わっている。
「古関蹟の碑」。白河藩主松平定信が精緻な研究の結果、寛政12年(1800)この地が白河の関跡であると断定し建立した碑。白河の関跡地が何処であるかについては説が分れていた(今も異説がある)。
社務所
社務所前の芭蕉句碑。「関守の宿を水鶏(くいな)に問はふもの 芭蕉」
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