2018年5月7日月曜日

〇《イザベラバード紀行(7》)5-5(土)雨。院内「道の駅おがち」から青森港までの旅程。この日もイザベラ・バードの旅行記に忠実に下道をひたすら旅行記通りの道筋を辿る。横手(金沢柵)、大曲・神宮寺、秋田、鹿渡・檜根・鶴形・切石(米代川渡河点)・綴子・大舘、矢立峠、碇ヶ関、黒石・高照神社、青森港津軽海峡フェリー埠頭(終点)

〇朝7時半、道の駅出発。「湯沢」を通り、「横手」に到着。ここには念願の探訪地があった。「金沢柵(かねざわさく)」。「後三年の役」の激戦地。この役に先立つ「前九年の役」は岩手県北上盆地を中心に戦われた。官軍の総大将は源頼義。敵は安倍一族。頼義は攻めあぐねて、羽後の支配者・清原氏と同盟してようやく勝利。その後、頼義の子・義家が陸奥国の国司となって仙台多賀城に赴任していた。清原氏は戦勝後、本拠地横手盆地から手を延ばし東方の北上盆地まで手中に収めていた。いわゆる奥六郡の覇者。折しも清原氏に内紛が発生。源義家はそこにつけ入り介入。清原氏は金沢柵に立て籠もって籠城戦を展開。兵糧尽きて勝敗が決した。この時清原側で義家に付いて生き残ったのが清原清衡。この清衡こそ奥州平泉の開祖の藤原清衡だと言われている。一方源義家は朝廷に恩賞を請うたが、私闘とみなされて無視された。が、武士の時代の幕が開いた。この金沢柵の所在地が永らく不明だったが、近年ここだと比定されている地がある。そこに行ってきたという訳。小高い山が全体として城砦化されている。本丸・二の丸・西の丸・北の丸等が整い戦国時代の山城要塞とほぼ変わらない。義家が勧請したという「金沢八幡神社」が鎮座している。麓の「後三年の役・金沢柵資料館」や「平安の風わたる公園」も見学。公園には源義家ら四将の銅像が建っている。ここで8時半から10時半まで時を過ごした。今日の日程が一気に厳しくなった。「六郷」を通り「大曲」へ。ここは大仙市と名が変わりピンとこない。大曲の近くに「神宮寺」という集落がある。イザベラはここに来て雄物川に船着場のあるのを見て秋田行きの舟便の手配を青年通訳伊藤にさせた。果たして舟便はあった。彼女は秋田まで楽な旅ができた。ボクはこの神宮寺で雄物川にかかる橋を渡ってみた。雄物川は最上川の様に水量豊富な大河。その後ボクは秋田市街地を走り北に抜けて往時の八郎潟の東岸沿いに国道を北上し、「鹿渡(かど)」という所で東に折れて今は県道となっている道を辿って「檜根(ひね)」「鶴形(つるかた)」を目指した。途中この道が旧「羽州街道」だという標識があった。鶴形で米代川にぶつかり以後米代川の南岸を東に行く。東行中「富根(とみね)」という集落を通ったが、これぞ旅行記に記された「飛根」であろう。彼女は「とみね」を「とびね」と聞き誤った。飛根という地名は地図上で該当地帯をいくら精査しても見当たらない。とうとう「切石(きりいし)」という集落に着いた。ここは米代川の渡河点。米代川は水量豊かな大河。イザベラが渡ろうとした日は記録的な集中豪雨の真っただ中。船頭は危ないと渋ったが懇請して舟を出してもらった。舟は流されることを想定してかなり上流から出た。彼女は渡河の途中で、近づいて来た屋形船が流木にぶつかり転覆して7,8名の船頭らが川に投げ出される惨劇を目撃した。米代川を渡って今度は北岸を東に行くと「小繋(こつなぎ)」を通って「綴子(つづりこ)」に着いた。ここは今は「北秋田市」というらしい。馴染めない名。南下すると鷹ノ巣の町があるという地理位置。さらに東行すると「大舘」に着いた。市街を抜けて「白沢」を通ってとうとう「矢立峠」にかかった。この山越えもイザベラには苦難を極めた。余程の集中豪雨だったのだろう。イザベラらが通り過ぎた直後に山崩れが襲ってくる有様だった。今眺めてみると峠自体はそれほど高くも急峻でもない。この峠は県境で、ここを越すと青森側に「碇ヶ関」がある。イザベラがここに着いてようやく安堵できた宿場。ここから「黒石」を目指した。黒石の市街に入ったら渋滞し陽が落ちそうなので焦った。というのはボクには悲願があった。黒石の西の弘前の、更に西の岩木山の麓に「高照(たかてる)神社」がある。そこに昔参拝したことがあった。その存在も知らずに通りかかったとき小さな案内標示を見て不図参拝していこうと気紛れで行ったのだが、境内に一歩足を踏み入れた途端その只者でないことを直感した。津軽藩主の霊廟のある神社。藩主自ら神道思想の理論と美意識に徹して設計建築した。江戸時代の創建だが、境内の5,6棟の建造物一式がすべて重文。かつて訪れた日は豪雨の日でずぶ濡れになり、本殿を見学してそそくさと帰ってしまった。実はその奥に長い参道があり、その奥に霊廟(重文)があったのだ。今度この神社を訪れる機会があったら必ず見落とした霊廟を参拝しようと心に期していた。そして今回の旅行のこの日を措いて生涯二度とその機会は廻ってこまい、そう思い落日の前に神社に駆け込もうと焦ったのだ。日没との競争となった。幸い日没までに貴重な10数分間の猶予を天はボクに与えて呉れた。ボクは本懐を遂げた。残雪を頭に戴いた岩木山を背景にリンゴ畑に花が満開になっている夕暮れだった。黒石から宵闇の中を青森港に直行した。道中「浪岡」「大釈迦」「鶴ヶ坂」などの旅行記で馴染の地名があった。イザベラが函館に渡る蒸気船に乗った青森港に着いたのが午後8時半。「津軽海峡フェリー」乗場の文字を確認して踵を返し東北自動車道に青森中央ICから入った。明日は連休最終日の日曜日、当然大渋滞が予想されるのでできるだけ帰路の距離を稼いでおこうという訳。目が疲れて限界となり岩手県北端の「花輪SA」に入りこんだのが午後10時。今夜はここで泊まる。かくしてイザベラ・バードの旅行記体験の旅の最終日は終焉した。

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