2020年1月11日土曜日

★奥の細道紀行 第226章 上越高田市「金谷山、芭蕉句碑」

『曾良随行日記』『○八日 雨止。欲立。強 而止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下刻(午後3時頃)、至高田細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵へ不寄シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓 而尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門(★註)、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。
○九日 折々小雨ス。 俳、歌仙終。
○十日 折々小雨。中桐甚四良へ 被招、歌仙一折有。夜ニ入テ帰。夕方 より晴。』
★註 一泊目の宿は「六左衛門」宅だったよう。あとの二泊は「細川春庵」宅か。〇高田での三泊の宿り地は高田駅の近くだと言われていた。今日の目的は、高田駅とその周辺の写真を撮ってそれで高田の空白の三日間は穴埋めされたものとしようぞ、というところだった。それが思わぬ展開を遂げて空白がほぼ埋められた。事態は次のように展開していく。
先ずJR高田駅に到着。駅を撮影しようとしたが駐車場がない。タクシー駐車場的な区画があって車が一台も駐車していない。タクシー駐車場との標示もない。一般駐車場とも書いてない。訳が分からないが駅前をちょっと撮影するだけのことなので置かせてもらって駅前をウロウロしながら撮影していたら、若いお巡りさんがやって来て呼び止める。駅舎の繋がりに駐在所があってそこから見ていたらしい。今タクシーは一台もいないがタクシー駐車場なので移動するように、Pは近くのあそこにある、30分内無料だと教えてくれた。言葉遣いは丁重でボクは気を悪くしなかった。市営駐車場だったがこちらも車が殆ど居ない。高田駅は結構寂しい。駅前を歩いて一周して撮影。

↓上越高田駅






 ↓駅前の大通り。芭蕉宿泊地はこの通りの何処かだろうと見当をつけたがそれは違っていた。駅の近くに違いはなかったが。
撮影後駅舎の雁木のような回廊↑を右に進んで行くと、若い警察官がボクを観察していた駐在所があり(3名ほど勤務していた)その手前に「観光案内所」があった。何か行き掛かりを感じて入り「つかぬことをお伺いしますが‥」と切り出すとオバサンが一人いて怪訝な顔をしたが「高田で芭蕉が三泊した所が何処か探しているんですが心当たりがありますか」と訊くとその人は満更でもない顔になった。そして地図を出してきて説明してくれた。先ず「金谷山(かなやさん)」に芭蕉句碑があること。次に「大町」の「町医者」の家に泊まったらしいこと。地図の「大町」に丸印を付けて貰ったら駅からそう遠くなかったが表通り。とうとう焦点が合って来た。ボクは彼女に御礼を言い、それからPからハリアーを引き出してとりあえず「金谷山」に向かうことにした。芭蕉句碑で何か情報を得られるかも知れないと思って。そうそう駐車料金は無料だった。意外なことに金谷山は駅の真裏の寺町を通って行くのだった。この寺町にはボクは二度ほど来ている。寺が何と百ヶ寺以上も藩政時代に集められた。この寺町が高田駅の真裏だったとは。そしてこの地理勘が結局芭蕉三宿の地の特定に大いに役立つ。金谷山は意外と近かった。スキー場がありそこは日本でのスキー発祥の地だというので遠い山奥だと思ったが。高田の街のほんの郊外だった。
↓「金谷山公園周辺観光史跡案内」左側中ほどの8番が「芭蕉句碑」
 ↓この「謡曲・金谷詣」の説明板が貴重な情報を提供してくれた。『元禄2年(1689)7月、松尾芭蕉は、奥の細道の旅路の途中、越後に入って病に罹りました。高田城下の大工町(仲町五丁目)の町医者細川昌庵を訪ねて三泊し、句会を開きました。‥‥』


 芭蕉句碑の入口
 ↓「芭蕉句碑」『薬欄にいづれの花をくさ枕』「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕してここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの」と解される。元禄2年(1689)7月8日(旧暦)、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったと言われている。‥‥芭蕉は、旧暦7月2日新潟、3日弥彦、4日出雲崎、5日鉢崎(現柏崎市)を経て6日に今町(直江津)を訪れ、翌7日も滞在し、8日から10日まで高田で過ごしたようである。‥
 見渡しても句碑がなかなか見当たらない。
 隅っこにようやく発見。頁岩で表面がボロボロと剥げ落ちて最初の「薬欄」と最後の「艸まくら」ぐらいしか読み取れない。

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