↓ 薬師堂本尊・薬師如来坐像・国宝(「日本の仏像No46・勝常寺薬師三尊とみちのくの仏」講談社より引用)。厨子の中に鎮座。国宝・日光・月光両脇侍菩薩も厨子の中に立っていたが、両菩薩像は今は霊宝館に移されているので独り寂しく坐っている。漏電の怖れがあるので電光では見れない。格子戸から入る僅かの自然光で拝する。 霊宝館。今日も閉まっていた。が、一思案の末、本坊が近くにあったので交渉しに行った。何とか開けてくれることに。どうも予約制らしいが、境内の何処にも予約申込み先すら表示してないんだから話になっていない。折角巡礼にはるばる訪れてきて、空しく引き返す人は数知れないだろう。昨日の吾輩たちがそうだった。今日も執念がなければ同じ轍を踏んでいた。 霊宝館の至宝たち(以下の写真はすべて「日本の仏像No46・勝常寺薬師三尊とみちのくの仏」講談社より引用)。
↓ 日光菩薩立像・国宝
↓ 日光菩薩立像・国宝
↓ 月光菩薩立像・国宝
十一面観音菩薩立像・重文。霊宝館に入って右隅に立っている。吾輩の目に最初に入ったのがこの仏像。感動した、胸が高鳴った。
十一面観音菩薩立像・重文。霊宝館に入って右隅に立っている。吾輩の目に最初に入ったのがこの仏像。感動した、胸が高鳴った。
天部立像・伝虚空蔵菩薩。重文
聖観世音菩薩立像・重文
地蔵菩薩立像・重文
地蔵菩薩立像・重文
四天王像・重文。一体は、東京国立博物館に寄託。
いずれの仏像も、平安初期に制作されたもの。開基は「徳一上人」と伝承され、上人自刻と伝わる「徳一上人坐像」も霊宝館に安置されている。「徳一」は「最澄」との宗論対決で有名。唐から帰朝した最澄が比叡山に延暦寺を開基したとき、南都から宗論を挑まれた。その南都の代表僧が陸奥・会津の徳一だった。最澄の相手が何故会津の徳一だったのか、勝常寺の仏像群を見分して少し納得がいく。徳一は南都・奈良の都で修業して当代一の学僧となり、都の最高の仏師に彫刻させた仏像群を馬車に乗せて陸奥に布教に赴いた――その様な情景が目に浮かぶようになっただけでも、ここを訪れた甲斐があった。平安初期にはもう会津地方は仏教文明の最高峰の学僧と仏像に恵まれていた。
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