早朝「足尾銅山」を目指し東北道を南下し出したら、不図「白河の関」探訪を思い立った。これまで何故思い付かなかったか不思議なほどの好いアイディア。もっとも「白河の関」が何処にあったかは古来からの謎。平安末にはもう所在地が不明になっていたらしい。能因法師の歌、「都をば霞とともに立ちしかど秋風の吹く白河の関」が余りにも旅情をそそる。白河の関は所在地不明のまま指折りの歌枕になった。現在の定説は「旗宿」という郷にある式内社「白河神社」の所在する所。県道が谷間をくねくねと分け入っている。芭蕉が旅した時代は地元で二説が主張されていて困ったらしい。芭蕉は二説分を踏破したそう。関の句がないのは、句を詠むどころでなかったのかも。吾輩は「白河神社」説の故地を訪問。神社に隣接して関所の濠・土塁の遺構が発掘されていた。幸先好く「白河の関」探訪に成功。それから東北道に乗り「足尾銅山」探訪に。今市・日光を経由して桐生に至る山道を下る。渡良瀬川沿いに走る。「足尾銅山」は昭和48年に閉山され、地上にあった選鉱場や精錬所・発電所などの巨大施設はもうない。山中に坑道が張り巡らされたまま今も地中に残っている。地並み坑の上20階、下15階の多層に亘って掘られ、それらが9本の縦坑で連結され、その総延長は1,200余km、東京から博多までの距離になるという。その坑道をほんの一部だが活用して「足尾銅山観光」という会社が細々と営業している。トロッコ列車で「通洞坑」に入る所から探訪が始まる。坑道の中の駅で降りて、後は坑道を歩いて戻って来る。道中色々仕掛けがあって面白くためになる。800円を払う価値は十分ある。山を降りて桐生の街に入ったときには明日の旅程が立っていた。秩父から甲府に出る。「秩父神社」と山中深くにある「三峰(みつみね)神社」を探訪して山梨県に出る。そして甲州の国宝寺院2件を探訪して帰路を辿る。確か秩父に道の駅があった筈という見当が生み出した旅程。秩父までの行きがけの駄賃に新田荘(新田町は太田市と合併したらしい)を通り新田義貞の事績を辿ろうと目論んだ。それがまたドンピシャリ行き着いた。「生品(いくしな)神社」←新田義貞の鎌倉攻めの旗揚げ地。「反町舘跡」←新田義貞の居館跡という伝説がある。「江田舘跡」←新田一族の居館跡。舘跡はいずれも濠が廻らされ土塁が築かれている。秩父に道の駅があったはずという見当も適中して、今その道の駅「ちちぶ」に収まっている。市街のど真ん中に立地するので電波もビンビン通じる。結構。
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