2011年12月29日木曜日
〇12/28(水)、全国的に御用納めに忙しい日、吾輩は宮崎県「道の駅・日向」に居る。
午後七時、宮崎県日向市の「道の駅・日向」に到着。いつもは六時頃にその日の宿営地に入り込んでいるのに今日は遅い。船にとっても日向灘だが、車旅行にとっても日向灘でPA・道の駅が延岡からずっとない。道の駅・日向と言っても日向市の南端。暗闇の運転は目が悪いので疲れる。今日は先ず佐賀関半島の先端に行き、向かいの四国・佐田岬半島を眺めてきた。去年は佐田岬から九州・佐賀関半島を眺めたもの。関心の一つ、佐賀関の銅精錬所は消滅しているのではないか、に答えが出た。元気にやっていた。巨大煙突を二本立て、工場のあちこちから蒸気を噴き上げ、轟音を立てて活動していた。もっとも銅の精錬はもう本業にしていないんじゃないかなぁ。次に半島の南側根元の臼杵市に行き、ここの山手にある「国宝・うすき石仏群」を探訪。悲願達成、今回の九州旅行の目的の半分はこの「国宝・うすき石仏群」に御目にかかること。この石仏群は平安時代の初め頃から地元の人達に大事にされてきた。大日如来の首がいつの頃か(多分地震で)落ちて、それが胴体の前にちょこんと据えられてお参りされてきたが、近年修復されて胴体の上にちゃんと載っている。国宝指定は平成7年頃らしいが、首が繋がったのもその頃ではないか。一つの小谷の周辺、4箇所に分れて石仏群が存在している。それから竹田市の「岡城址」に山を越え越え行った。今回2度目の探訪。前回は夕暮れが迫り満足な探訪でなかったので。今回は日中時間をかけて隅々まで探訪。そして前回の探訪で抱いた関心に答えが出た。本丸の背後に続く長々とした尾根筋の防御力が弱く攻撃に曝され耐えられないのではないか。探索してみるとそちらこそ昔の大手門で防御力が十分なことが分った。下原(しもばる)御門と呼ばれた。大手門が保つなら下原御門も保つ、下原御門が保たないなら大手門も保たないといったところ。七尾城など足許にも及ばない巨大城砦。もっとも城主は五万石程度の大名。兵力も精々1,500ほどだろう。秀吉側に付いたので、九州制覇に挑んでいた島津軍数万に攻められた。が、少戦力で見事持ちこたえた。天下の名城の誉れを欲しいままにした。また岡城は滝廉太郎作曲の「荒城の月」の舞台。訪れてみれば確信する。イメージがピッタリ。滝廉太郎は少年時代の二年間、ここ竹田市で過ごした。二の丸に同窓生らが建てた銅像が立つ。岡城で3時間も探索していたら宮崎県の海岸線(宿営地)に出るルートが時間的に絞られて、心にあった九州山地の背を縫う椎葉村ルートは排除の憂き目(このルートに道の駅がない)。延岡に直に下りることに。道中「原尻の滝」の案内があったのでとっさにハンドルを切ってみた。どうせ山中深く入らせられるんだろう(まさか「熊野磨崖仏」の二の舞にはなるまいが)と思ったら、何と国道に近い平野を流れる普通の川がいきなり20mの落差の滝をなしその先はちょっとした峡谷となっている、さしづめミニ・ナイアガラ瀑布のようで絵になっている。この不思議を紐解けば、阿蘇山噴火の溶岩がこんな所にまで流れて来て川を堰き止めたせいだそう。明日は日南海岸を南下し、好天ならば都城から高千穂峰を望見する。各種写真で検討したらそこから見る高千穂峰が最も絵になりそう。できたら霧島山の内懐、「高千穂河原」まで行きたいもの。その河原に元は霧島神宮が鎮座していたがその昔「新燃岳」の噴火で焼失し、現在地に移転したそう。
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