石川県から車で富山平野を走り親知らず子知らずの険を越して新潟県に入ると、そのあと新潟県の長大さに辟易させられる。僕は地理好き少年だったから小学校時代に北陸三県と新潟県の面積人口比較をやったことがあった。結果は当時の僕の地理的常識に反した。面積は《富山県+石川県+福井県(但し敦賀以西の若狭国を除外)=新潟県》だった。人口もほぼ同様の結果となった。越後の国(=新潟県)は大国(大県)なのだ、上杉謙信は大国を宰領したから天下の名将たりえた。北陸三県は結び付きが結構強いが、北陸三県と新潟県との結び付きは殆ど希薄。因みに北陸三県同士では、富山県と石川県は強く結び付いているが、福井県はどうやら富山・石川県の仲間と見られるのを好まぬらしい。京・大阪か名古屋圏に近いと思っているらしい。さて北陸三県と新潟県の関係に戻るが、古代には併せてみんなで《越の国》だった。それが飛鳥時代に都に近い方から越前・越中・越後の三国に分割された。さらに能登・加賀両国が分離されるが、二つの国は越前国から分国された、この点ちょっと意外なんじゃぁ。意外といえば能登国の分国の方が早くて奈良時代初め。加賀国は平安時代になって漸く分国された。能登・加賀両国の境目は押水の大海川だったらしい。越前国と若狭国の境界は敦賀の西にある関峠(従って敦賀は越前国に所属)。越後国の版図・北限――これが得体が知れない。元は弥彦山(弥彦神社)辺りまでが北限だったらしい(その先は蝦夷地)。それが一時は後の出羽の国まで延びたらしい。出羽国が分国されるに及んで越後国は現在の新潟県の版図とほぼ一致するに至った。これだけ前置きしてやっと僕が今日書きたかったことに入れる。
新潟県を旅すると天気予報でも何にでも直ぐに「上越(じょうえつ)」「中越(ちゅうえつ)」「下越(かえつ)」という三分類語に出くわす。どうやら越後国(新潟県)全体の地域区分だという察しはつく。京の都に近い方から遠い方に上・中・下だということも察せられる。分らないのは境目。何せ長大で北に版図が段々伸びた過去があって小県育ちの身にはピンと来ない。それが写生旅行で新潟県を走り回っていてやっと分った。代表的な市を振り分けると、糸魚川・上越(高田・直江津)が「上越」、柏崎・長岡・三条が「中越」、新潟・新発田・村上が「下越」(下越が広大、上越は狭小)。新潟が「下越」に分類されているところが意外で面白い、僕は当然「中越」だと思っていた。長岡は下越の新潟を歴史的に見てきっと見下している、元は田舎(蝦夷地)だという訳。地理歴史好きとしてはこんなことが感じられただけで楽しい――それだけの話。
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