台地の古道を上ると漸く案内が出た。
左が三木城址。直進すると(後で歩いてみて分ったんだが)「新城」と「二の丸」曲輪の境目を行くことになる。左に行くと「西の丸」跡があり、さらに「本丸」跡がある。
西の丸跡には小学校の廃屋や美術館などが建っている。
本丸跡は「上の丸公園」というらしい。ここに何があるかというと、
先ず「金物神社」があった。神社の中に、
三木市立金物資料館があった。入館料が無料なので拝観。意外と展示物が充実、一見の価値はある。三木が野鍛冶で有名な町であることを知らなかった。各種鉄製品がどのようにして鍛造されていくのか、一目瞭然に分らせてくれる。学ぶことが多かった。大事だったのはここのオジサンと会話する縁が出来て、三木城の往時と現今の姿の似ても似つかぬ相違を教わったこと。往時の三木城の面影は「上の丸公園」の一角にしか残っていない。あとはすべて高台の市街地と化して面影を偲ぶよすがもない。資料館のオジサンと目が合い入館することになる縁がなければ、三木城の輪郭は幻の彼方にあったろう。資料館を出て、僕は教わった三木城の輪郭を辿った。
本丸の一角は稲荷神社に占拠されている。稲荷神社の境内から見下ろすと本丸の高さが分る。
本丸らしさが残る一角がここ。
この銅像のお蔭で、ここが往時三木城の本丸であったような気にさせて貰える。
「天主跡」とされている場所からの眺め。当時天守閣を備えた城はは未だ何処にもなかったろう。
別所長治の辞世の句碑が建てられている。「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」 自刃した一族の人達の句碑もある。
本丸にある案内看板。三木城が一大城郭であったことが分る。しかしこれよりも金物資料館のオジサンから頂戴した図面の方が詳細で良い。僕はオジサンの図面を手にして歩き回った。およそ5,000歩、約3km。その図面、明日撮影して掲載しよう。
神戸電鉄が本丸の真下真横を横切る。
「鷹の尾」要塞に比定される小山。右の森は「雲龍寺」。
「雲龍寺」。ここが、三木城郭の西端をなしていたらしい。
「二の丸」と「鷹の尾」要塞の間の濠跡に見える。
二の丸曲輪を廻る古道に見える。
右側が「本丸」跡、左側が「新城」跡。資料館のオジサンの話では、道はもっと深かった(土盛りをしたそう)。
「新城」の崖。崖上の高台は市街地化。
「新城」下の坂道を下って振り返って見た「新城」の崖。
さらに下ると「東の丸」の崖が見えてくる。
この崖上の高台も市街地化している。
「新城」の崖と「東の丸」の崖の間辺りから伸びている道が往時の「大手門」に通じていたらしい。国道付近に「大手堀」の地名が残っていた。
大手門方向に歩きながら振り返ると、
右側にこんもりと見える森が本丸跡(上の丸公園)。
新城の崖に生えた森。
東の丸の崖に生えた森。
大手門付近らしい。この小路を指している次の案内標示を発見。
三木城は、山間の砦といった類のチャチなものではなく、一大城郭をなしていた。だが今は盛時の城郭の雄姿を偲ぶよすがもない。戦国時代の城塞攻防の一大叙事詩を偲ぶ人々の心の中にのみ生きている幻想の城郭というしかない。
ところでこの一大叙事詩を飾る謎は、三木城は何故に織田信長、その中国方面軍総司令官羽柴秀吉に反旗を翻したのかという点。この不思議は解明されていないが、戦国武将の心の機微が何となく感じられて謎なるが故に詩想に繋がる。
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