旅行記はやっぱり時間の順序に沿うのが良いと思うので、永平寺探訪から始める。
永平寺
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永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗大本山の寺院である。山号を吉祥山と称する。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。總持寺とならんで日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
道元の求法 曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、ほんらい悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、すでに世を去っていた。比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)、建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。日本へ戻った道元ははじめ建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
越前下向 旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
永平寺に着いたのはもう午後4時。
【傘松閣】
永平寺のパンフによれば、「七堂伽藍」とは山門・仏殿・僧堂・庫院(くいん)・東司(とうす)・浴室・法堂(はっとう)のことで、特に僧堂・東司・浴室は三黙道場といって一切の私語は禁止されている。
【山門】仏の世界に入る関門。二階に五百羅漢が祀られている。
山門の四天王像 仏教の守護神
【中雀門】
【僧堂】修行僧の根本道場で、坐禅・食事・就寝等が行われる。
【仏殿】七堂伽藍の中心に位置し、永平寺の御本尊・釈迦牟尼仏が祀られている。
【法堂(はっとう)】七堂伽藍の最奥に位置し、説法や各種法要が行われる。
こういう廊下が縦横無尽に通っている。
【大庫院(だいくいん)】食事を司る台所を始め、賓客の接待の間等がある。
大すりこぎ棒
所持して歩いていた靴にいつの間にかモミジの葉が一つくっ付いていた。捨てる気にもならず、セレナの中で押し葉にした。
【東司(とうす)】お手洗いのことで、心身共に清浄となることを心掛ける道場。
【浴室】入浴は大切な修行であり、静寂の中で行われる。
永平寺を出た時はもう真っ暗け。北陸道に入り、南条SAで宿泊。月が出ていた。
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