〇城山氏="しろちゃん"が眼下の鉄筋コンクリート建物を指して、これが本居宣長記念館だと教えてくれた。
記念館の左手の木造建物を案内して、これが本居宣長居宅だと教示。
左側建物は、明治42年に新築された「桜松閣」。右側は土蔵、やはり明治42年にこちらは移築された。この中に本居宣長の著作類16,000点が保存されていた。今はすべてが記念館に移転されている。そのうち、2,000点が重要文化財。
土蔵。左・桜松閣、右・居宅・鈴屋(すずのや)。
土蔵と奥に居宅・鈴屋(すずのや)。
居宅・鈴屋
城(しろ)ちゃんの説明では、「鈴屋」は、居宅の屋根のうち出っ張り部分の下の部屋だけを指すんだそう。その部屋で、宣長翁は専ら研究し講義したんだそう。
「鈴屋(すずのや)」の屋根部分。以上は、本丸横の石垣の上に立って撮影。
↓ 本丸から二の丸に降りてきた。
本居宣長居宅の門。屋根にシビが向き合って載っている。シビが載っている建物は、東大寺大仏殿、唐招提寺金堂とこの門だけと、城ちゃんが誇らしげに解説。
松阪城・裏門を抜けて石垣沿いに行くと、本居宣長記念館・石碑が入口にある。
月曜日・休館日。
中に入って、記念館を撮影。いつか中に入る。
↓ この石垣を右に入ると記念館、真っ直ぐ行くと「本居宣長の宮」
宮の鳥居
本居宣長の宮、拝殿
本殿。本居宣長の宮は氏子の居ない神社、崇敬者だけでもつ。護持が大変なのは、拝殿・本殿の姿を見れば分る。
宣長翁の歌碑。「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花」。日本海軍の戦艦の名、「敷島」「大和」「朝日」はこの歌から来ているとは、城ちゃんの解説。そうかも、と思った。
2012年8月25日土曜日
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本居宣長って歴史上の偉人とは覚えていますが、そんな立派な記念館があるなんて、何した人だっけ!?検索したら『古事記伝』と (o・。・o) そっか、そういえば聞いたことあるかもしれない!?私も“しろちゃん”に直に教わりたいですね。
返信削除┗(^o^)(^o^)┛
本居宣長って、知名度はあるが何をした人か、多くの日本人は知らない、これが実情みたいですね。あの博識・賢明な従姉の七重ちゃんも、メールでvenusさんと同じことを言ってました。ボクのイメージは、僧契沖・賀茂真淵と流れた国学を大成した江戸時代の人(平田篤胤が継いで神道的な要素を強調したために、幕末・維新時代に国学に歪みを生じた。ために戦後教育の中で国学の重要性はほとんど無視された)。宣長が国学を志した当時、古事記はほとんど解読不能の古書になっていた。それを宣長はコツコツと注釈を加えてゆき遂に大部の《古事記伝》を完成し読み解いた。源氏物語も深く研究した。彼の研究の殆どは松阪の居宅《鈴屋(すずのや)》で行われた。その土蔵には16,000点にも及ぶ研究の成果が収蔵されていた。《もののあはれ》、これが彼が感得した日本人の精神構造の基礎をなすもの。宣長は、心を表すものとして言葉を大切にした。ボクが現代教育に欠ける大事なことのひとつは、言葉=心というこの観点だと思っている。言葉を大切しない者は、自他の心も大切にしない。本居宣長居宅・鈴屋の主(ボランティアガイド)・城(しろ)ちゃん(城山博伸氏)が大好きな宣長翁の歌―《敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花》。確かに《もののあはれ》を端的に歌っている。因みに宣長翁の墓は遺言に従い、山頂にポツネンと立ち墓碑銘は刻まれず、傍にただ山桜の木が一本植わっているんだそう。これも、城ちゃんの話。
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