高千穂河原から霧島温泉郷に抜ける道中で偶然出くわした。思わずセレナのブレーキを踏んだ。こんな優美な姿・風情の滝は見たことがない。崖をなす岩盤の斜層亀裂に従って滝の白糸も斜線が織り込まれていて絶妙。
2011年12月31日土曜日
〇「関之尾の滝」 宮崎県都城市
〇「原尻の滝」 宮崎県緒方町
大分県竹田市「岡城跡」から延岡市に向けて山を下っていたとき、緒方町で偶然「原尻(はらじり)の滝」に出逢った。田園が開けた平凡な農村地帯を流れる緒方川が突如20mの絶壁をなして瀑布線を造る。絶壁部分は阿蘇山から噴き出した溶岩だという。
12/31(土)大晦日の稿、続き。
今日の旅程報告から。今朝八時に佐賀県「金立SA」を発ち、長崎市で「崇福寺(そうふくじ)」の国宝・三門&本堂を拝観して国宝建造物全部の探訪を無事果たし、その後島原半島を一周して「原城跡」と「島原城」を探訪し、諫早ICから長崎自動車道に入ってまた金立SAに戻ってきたところ。今夜もここで泊まる、電波事情が痛快な程良いのでお気に入り。元旦はひたすら関西を目指してセレナを駆る、先んずれば人を制す、Uターンラッシュには遭いたくないもの。独りぽっちで寒空の中、大晦日の夜を車の中で迎えるのはやはり寂しい。大晦日・元旦はやっぱり家族と一緒に迎えるのが好い。コンビニで蕎麦を見つけて買ってきたが、食欲はない。日本酒も仕入れてきたのでそれを飲みながらプログしている。振り返ると今年の年末旅行は天候に恵まれた。風・雨・雪に悩まされた日は一日とてない。探訪が順調に運んだことが大いなる救いだった。悪天候に苦しめられていたら、多分気持が滅入ってどうなっていたか分ったもんじゃない。正月三が日は関西方面を走り回るつもり。関西は探訪すればするほど奥が深くなる。さし当たっては紀州九度山の「天野の里」探訪。世界遺産「丹生津姫神社」のある所だが、ここに西行の妻と娘を廻る悲しい伝承の史蹟が幾つもある。西行は京都で23歳頃に出家し妻子を見捨てた。そして二十代を諸国を転々として過ごし、三十代に入り永く高野山に籠り修業した。妻と娘は、西行が高野山に居ると聞いて女人禁制の高野山の入口の九度山「天野の里」に庵を結び西行の近くに身を置いて生涯を送った。この伝承の悲劇の舞台を訪ね巡ろうという訳。さし当たって今一つの関心は、生駒山、葛城山・金剛山一帯に分布する「役(えん)の行者」の足跡を尋ね歩くこと。神仏習合の故里のようなゆかしい山里に古色蒼然たる社寺が今も古代の面影を宿して存在しているらしい、この話、白洲正子の受け売りだけどf(^^ゞ。いよいよこれが今年最後のブログになりました。読者の皆さん、どうか好い新年をお迎え下さい。後で賀状代わりに、年末旅行の記録写真の中から鯉が登るかも知れない三種の滝の絵を掲載しておきますのでお楽しみに(^.^)/~~~
12/31(土)、大晦日なるらんめり
今日は世事的には「大晦日」らしい。日本国民は(一部の者を除き)みんな一年の煤を払い新年を迎える準備と心構えをするらしい。吾輩の大晦日は、全国国宝建造物で最後に見残された長崎市の崇福時の山門と本堂を探訪して満願成就となる。ここ佐賀県の夜明けは七時過ぎだった。宮崎県日向市の夜明けは僅かに早く七時前だった。西の夜明けは東よりも遅い(夕暮れも西が遅い)。朝八時、いよいよ最後の目標「崇福寺」に向かう。探訪を終えた後の心境は多分達成感とこだわりからの解放感そして望郷の念に満たされるだろう。長崎市の後は、島原半島の「原城跡」か「平戸島」に向かい帰路を辿る。正反対の方位にあり普通なら二者択一だが、この際だ、両方探訪という可能性もある。それでは出立。
2011年12月30日金曜日
〇12/30(金)、長崎自動車道・佐賀県「金立(きんりゅう)SA」に居る。NETに繋がったのでここで野営する。
今日の旅程。①都城市「関之尾の滝」探訪。滝そのものも見ごたえがあるが、滝の上の「オウ穴・甕穴(かめあな)」群が上流600mに亘って存在しこれは世界一の見ものだそう。②霧島山「高千穂河原」に霧島神宮・元宮探訪。前回来たときは夕方五時で立入禁止時刻に掛かった。悲願を成就した。元宮までは入山出来た。しかしその先の登山道は立入禁止。霧島神宮が元宮から現在地に引っ越しを余儀なくされたのは、大昔に「新燃岳」の噴火により溶岩が降り注ぎ社が焼失したため。③霧島温泉郷で「丸尾の滝」に出逢った。女性の美しさを滝にしたらこの滝になるしかないような滝。写真が楽しみ。④熊本県人吉市「青井阿蘇神社」探訪。平成20年に国宝指定されたという楼門・拝殿・幣殿・廊・本殿を拝観。廊・本殿以外は茅葺。国宝指定に浮かれ気分も感じられた、嫌味はないが。⑤福岡県太宰府市「観世音寺」探訪。宝蔵にて重文仏像十数体(丈六仏が六体)を拝観。圧巻。今回の九州遠征の目的の半分は大宰府観世音寺の圧巻仏像達に御目に掛かること。それが宝蔵を前にしてはっと思った、折角辿り着いたのにここも年末休暇に入ったのではないか、背筋がゾッと寒くなった。幸いオジイサンがいて入れてくれた。宝蔵中央に居並ぶ仏像三体は身の丈5mもある超丈六仏。十一面観音像・馬頭観音像・不空ケン索観音像の三体でいずれも立像。その左右に居並ぶ阿弥陀如来坐像、聖観音坐像、十一面観音立像、地蔵菩薩坐像も大きい。その他阿弥陀如来を守護する四天王像、大黒天像・吉祥天像、地蔵菩薩立像なども含め、居並ぶすべての仏像が重文。観世音寺は堂塔伽藍のほぼすべてを早くに失ったのに、これら多くのしかも巨大なものが多い仏像達を一体どのようにして守り通して来たものか実に不思議。⑥「太宰府天満宮」に参詣し、お礼とお願いをしてきた。正月になったら初詣の混雑で車に乗っていてはどうにもなるまいと思われたので探訪・参詣予定をすべて年内に済ますことにして今日一日で宮崎県から鹿児島県・熊本県・佐賀県を駆け抜けて福岡県太宰府市まで来た。そして明朝の長崎市入りに備えて長崎自動車道に入り込み、佐賀県「金立(きんりゅう)SA」に泊まっている。長崎市・崇福寺の国宝山門・金堂が未だ探訪していない唯一残った国宝建造物となった。明日無事その探訪を済ませばそれで全国の国宝建造物全部の探訪が成就する、満願(*^^)v。いつの間にか(多分今秋に入ってから)満願成就が目標になっていた。西国33箇所観音札所霊場巡りもいつの間にか達成したし、北海道以外は全国津々浦々ほぼ隈なく走り回ったし、もうそろそろ無宿流浪の旅生活から足を洗う潮時かも。来年からはアトリエで心の趣くままに絵を描く生活に入ろうかとf(~_~;)。追伸。セレナを駆って都城から霧島山に入るまでの行程は「高千穂峰」の全容が角度好く見える僥倖地点に出逢えるかどうかの賭けだった。果たして僥倖に廻り逢えたかどうか、それは写真を見てのお楽しみ。
2011年12月29日木曜日
〇12/29(木)、宮崎県「道の駅・都城」に宿営中。公共施設は全国的に年末休暇に入り不便中。
宮崎県都城市「道の駅・都城」に居る、今夜はここで宿営。今日の旅程は、①「西都原古墳群」を三度目探訪。本当は西都原考古学博物館を初めて見学しようと思って行ったんだけど休館日、残念。西都原は丘陵上の台地、登るといきなり異界に来たという感じがする。三度目ともなるとさしも広い台地も要領よく回れる。特筆すべき古墳が幾つもあるが言葉で説明してはどうも面白くない。丘陵周辺に記紀神話に因む遺跡・史跡が数多く伝えられており、また国分寺跡もある。古代には日向国の中心はここ西都にあったように思える。②「宮崎神宮」(祭神・カムヤマトイワレヒコノミコト=神武天皇)に参拝(子供達が小さい頃家族旅行で来たことがある)。さすがの社。旧官幣大社。③青島と青島神社を探訪(二度目か三度目か分らん)。海幸だったか山幸だったかが祭神、多分山幸の方。トヨタマヒメも祀られている。④日南海岸に入って「鵜戸神宮」に参拝してきた(三度目)。祭神はナントカのフキアエズノミコト、神武天皇の父上。旧官幣大社。海縁りの洞窟内に本殿が納まっている。②~④は写真が残っていないので写真を撮りに寄ってきたようなもの。宮崎市から南はビローの街路樹が延々と生え揃い南国情緒が溢れている。また海岸線に広々とした千畳敷・鬼の洗濯岩が随所に展開して見事な景観。真冬の日の落ちるのは早いので都井岬行きを断念し、日南市から山中に入り都城に出た。都城から眺める高千穂峰の形が一番好いので是非一度ここへ来ようと思っていた。「道の駅・都城」があることは今日午後になって地図上で発見。都城に着いたのは日が落ちて間もない夕暮れ時で西の残照の空にうっすらと遠く高千穂峰の全容が浮かんでいるのを目にしたときは静かな感動を覚えた。予想通りのシルエット。明朝も好天が続けば、高千穂峰を正面に見据えながら漸近していくことになる。出来たら陽が中天にかかる前に霧島山中の「高千穂河原」に足を踏み入れたい。新燃岳の噴火の余燼で入山禁止かも。悔いのないように とにかく 行ってみる。
〇12/28(水)、全国的に御用納めに忙しい日、吾輩は宮崎県「道の駅・日向」に居る。
午後七時、宮崎県日向市の「道の駅・日向」に到着。いつもは六時頃にその日の宿営地に入り込んでいるのに今日は遅い。船にとっても日向灘だが、車旅行にとっても日向灘でPA・道の駅が延岡からずっとない。道の駅・日向と言っても日向市の南端。暗闇の運転は目が悪いので疲れる。今日は先ず佐賀関半島の先端に行き、向かいの四国・佐田岬半島を眺めてきた。去年は佐田岬から九州・佐賀関半島を眺めたもの。関心の一つ、佐賀関の銅精錬所は消滅しているのではないか、に答えが出た。元気にやっていた。巨大煙突を二本立て、工場のあちこちから蒸気を噴き上げ、轟音を立てて活動していた。もっとも銅の精錬はもう本業にしていないんじゃないかなぁ。次に半島の南側根元の臼杵市に行き、ここの山手にある「国宝・うすき石仏群」を探訪。悲願達成、今回の九州旅行の目的の半分はこの「国宝・うすき石仏群」に御目にかかること。この石仏群は平安時代の初め頃から地元の人達に大事にされてきた。大日如来の首がいつの頃か(多分地震で)落ちて、それが胴体の前にちょこんと据えられてお参りされてきたが、近年修復されて胴体の上にちゃんと載っている。国宝指定は平成7年頃らしいが、首が繋がったのもその頃ではないか。一つの小谷の周辺、4箇所に分れて石仏群が存在している。それから竹田市の「岡城址」に山を越え越え行った。今回2度目の探訪。前回は夕暮れが迫り満足な探訪でなかったので。今回は日中時間をかけて隅々まで探訪。そして前回の探訪で抱いた関心に答えが出た。本丸の背後に続く長々とした尾根筋の防御力が弱く攻撃に曝され耐えられないのではないか。探索してみるとそちらこそ昔の大手門で防御力が十分なことが分った。下原(しもばる)御門と呼ばれた。大手門が保つなら下原御門も保つ、下原御門が保たないなら大手門も保たないといったところ。七尾城など足許にも及ばない巨大城砦。もっとも城主は五万石程度の大名。兵力も精々1,500ほどだろう。秀吉側に付いたので、九州制覇に挑んでいた島津軍数万に攻められた。が、少戦力で見事持ちこたえた。天下の名城の誉れを欲しいままにした。また岡城は滝廉太郎作曲の「荒城の月」の舞台。訪れてみれば確信する。イメージがピッタリ。滝廉太郎は少年時代の二年間、ここ竹田市で過ごした。二の丸に同窓生らが建てた銅像が立つ。岡城で3時間も探索していたら宮崎県の海岸線(宿営地)に出るルートが時間的に絞られて、心にあった九州山地の背を縫う椎葉村ルートは排除の憂き目(このルートに道の駅がない)。延岡に直に下りることに。道中「原尻の滝」の案内があったのでとっさにハンドルを切ってみた。どうせ山中深く入らせられるんだろう(まさか「熊野磨崖仏」の二の舞にはなるまいが)と思ったら、何と国道に近い平野を流れる普通の川がいきなり20mの落差の滝をなしその先はちょっとした峡谷となっている、さしづめミニ・ナイアガラ瀑布のようで絵になっている。この不思議を紐解けば、阿蘇山噴火の溶岩がこんな所にまで流れて来て川を堰き止めたせいだそう。明日は日南海岸を南下し、好天ならば都城から高千穂峰を望見する。各種写真で検討したらそこから見る高千穂峰が最も絵になりそう。できたら霧島山の内懐、「高千穂河原」まで行きたいもの。その河原に元は霧島神宮が鎮座していたがその昔「新燃岳」の噴火で焼失し、現在地に移転したそう。
2011年12月27日火曜日
〇12/27(火)大分県佐賀関半島の「道の駅・佐賀関」に居る。
このブログは大分県佐賀関半島の「道の駅・佐賀関」で大急ぎで上程している。この数日間ダイアルアップ接続はできてもブログに繋がらなかった。今日の最初の探訪は山口市の「瑠璃光寺・国宝五重塔」。見た途端その秀麗な姿と格調高い佇まいに感動、これまで見た国宝の中で一番絵になっていた。室町時代、大内氏が建立した。後ろ髪を引かれて立ち去った。次が下関市で「住吉神社・国宝本殿」と「功山寺・国宝仏殿」を探訪。この寺、来て見て分ったが毛利家の菩提寺。幕末、高杉晋作が回天の藩内クーデターを起こしたのがこの寺の門前。それから関門大橋を渡って九州入り。筑前・豊前を通過し一気に豊後高田市の山中深くの「富貴寺(ふきじ)・国宝仏殿」を探訪。夕暮れまで未だ一時間ほどあったので欲張ってさらに山奥に分け入り「真木大堂」の重文・迫力仏像群と「熊野磨崖仏」を探訪。最後の磨崖仏探訪のときは受付のオバサンに「杖を持って行きなさい」と強く勧められたのでなんぞ気に手にしたが、杖がなかったら磨崖仏に逢う前に乱積みの石段のきつさと長さに心臓と脚が参って死んでいた。あんな酷い登山が待っていると知ったら絶対挑戦しなかったのに。宵闇迫る中を別府市街地と大分市街地を突っ切って漸くのことこの道の駅に辿り着いたという訳。侘びしい道の駅だけど、ネットに一発で通じたからマァ許す。それにしても泊まっているのはボクだけだァ。 明日は第一番に「うすき石仏群」を探訪する。路傍の石仏群が何と歴とした国宝彫刻なのだ。
〇12/26(月)「しまなみ海道》を渡り、福山・広島を経由して今山口県防府市西方の山陽道「佐波川(さばがわ)PA」に居る。
ここは山陽道防府西の「佐波川(さばがわ)PA」。今日は今治市の道の駅「今治湯の浦温泉」を八時に出て「しまなみ海道」に入り、先ず大三島に降りて「大山祇(おおやまづみ)神社」に参拝した。伊予一ノ宮、全国一万余の大山祇神社の総鎮守社。隣の生口島(いくちじま)にも下りて国宝「向上寺・三重塔」を探訪した。山中の小寺。この島でついでに「耕三寺」も見学した。一実業家が創建した。弩派手、モノ真似調の大寺。後味が宜しくない。尾道に上陸し東方の福山市へ。国宝「明王院・本堂と五重塔」を拝観。心を洗われた。拝観料なし。隣の草手稲荷神社の弩派手には魂消た。山陽道伝いに広島市内にすっ飛んで国宝「不動院・本堂」を拝観。ここでも心を洗われた。拝観料なし。明日は山口市と下関市で国宝建造物を探訪していよいよ九州に入る。それで山口JCTの手前のこのPAで泊まっているという訳。ボクの関心の一つは、「しまなみ」の何処までが愛媛県で何処からが広島県かという点だったが答えが出た。来島海峡をなす大島から伯方(はかた)島 ・大三島までが愛媛県。生口島から因島・向島が広島県。平山郁夫は広島県人。
〇12/25(日)「しまなみ海道」の手前「道の駅・今治湯の浦温泉」に居る
久し振りにブログに繋がったので取り急ぎこれまでの旅程の報告だけでも。
先ず12/25(日)分。ここは道の駅「今治湯の浦温泉」。今日探訪した国宝は次の通り。いずれも松山市。①太山寺・本堂。山の中、大寺。②太寶寺・本堂。小寺。国宝・本堂の真後ろが墓苑、興ざめ。③石手寺・仁王門。大寺。マントラ・パゴダ等の異風な言葉が氾濫し俗な絵で飾り立てられた珍奇な霊場になっている。真言密教を和風を離れて展開させるとこんなことになりかねない。大墓苑を抱える、商売も上手。松山城にも挑戦したが、三の丸・二の丸までで本丸登頂は断念。時間がないのと何せ本丸は高い山の上、心臓と脚に自信がない。それほどの山上、もっとも反対側から登るとケーブルカーがあるんだが。その他四国88箇所霊場の46番から50番までのお寺巡りをした(石手寺は51番)。明日は「しまなみ海道」に入り、大三島の「大山祇(おおやまずみ)神社」、生口(いくち)島の「向上寺三重塔・国宝」を探訪し、尾道に上陸して福山市の「明王院」の国宝・本堂と五重塔を探訪する予定。生口島には「平山郁夫美術館」と「耕三寺」が並んでいる。耕三寺は実業家が建てた弩派手な大寺。時間があったら訪ねてみるのも一興と考えている。福山市の次は広島市。(^.^)/~~~
2011年12月24日土曜日
〇12/24(土)四国・松山道「石鎚山SA」に居る。
昨夜は名神高速「桂川PA」に泊まったが、ダイアルアップできたのにインターネットに通じなかった。今夜は松山道「石鎚山SA」に泊まる。松山ICの手前。ネットにも接続できた。今日は目標だけは達成した。①香川県坂出市の「神谷(かんだに)神社」国宝・本殿。田舎の小さな神社。そっと潜り戸を開けて本殿の前に立って写真を撮っていたら罰が当たって転んだ、が、賽銭をはずんでいたので怪我を免れた。②香川県さぬき豊中の「本山寺(もとやまじ)」国宝・本堂(本尊・馬頭観音像)。四国八八箇所霊場の一つ、大寺。③高知県大豊町の「豊楽寺(ぶらくじ)」国宝・薬師堂。「国宝・薬師堂」で通っていて「豊楽寺」など誰も知らない、恐ろしいほどの奥山にある。大豊町と言えば「日本一の大杉」と称する大杉があるので寄ってきた(これで3度目なので食傷気味)。冬至の日は実に短い。夏至の頃の半分ほどしか一日を有効に使えない。明日は松山市で国宝建造物を三つ訪ねる。それから「しまなみ街道」に入り、生口(いくち)島で国宝一点を訪ねて尾道に上陸し、福山・広島・山口・下関と国宝建造物のある所を辿りながら九州に入る。明日何処まで行けるかは分らない。生口島は東京芸大学長だった日本画家平山郁夫の生地、彼の名を冠した美術館もある。美術館の横に「耕三寺」という「西の東照宮」と自称する弩派手な建造物があるらしい。関西の鉄工業で成功した実業家が建てたそう。「越前大仏」ほどえげつなくないようなので(それでも拝観料は1,200円、越前大仏の拝観料・駐車料金はひどかった、こんなもんではなかった)寄って見るかどうか迷っているところ。平山郁夫美術館は一度見たが、折角だから寄ってみようかと。
2011年12月23日金曜日
〇12/23(金)天皇誕生日。年末年始大旅行に出立。
北陸は雪模様。ここを突破して山陽道、南海道に出れば雪の弊害に苦しめられることは殆どなかろう。今日はひたすら西南に向けて走るだけ。旅の報告は毎日しようと思うが、電波事情もあるし果たしてどうなるか。それではいざ。