鳥取砂丘を見学しに行くと、観光客がここに集中。車のラッシュで駐車場に入れない。駐車待ちのそれはそれは長蛇の列。子供達が小さかった頃、家族旅行で訪れて砂丘の頂上まで登ったことがあり、絵になる構図をとるのは難しいことを知っていたのであっさりと断念。20年前、妻子(娘三人)と登った時の写真を持ち出して来て貼り付けておく。雄大な砂丘であることが分る。赤い揃いのワンピースが三人の娘達。この頃はみんな可愛かったなぁ。
鳥取城を目指した。鳥取砂丘は鳥取市の郊外(市街地の近く)にあり、鳥取城は市街地にある。何故わざわざ鳥取城に赴くか。僕は歴史好き。若い頃、司馬遼太郎に魅せられた(学生時代漢文講座を選択し、司馬遷の史記――項羽本紀、淮陰侯列伝――を漢籍で読んだときは痺れた)。司馬遼太郎の小説に書かれた羽柴秀吉の中国攻め、その中でも播磨三木城の兵糧攻め・因幡鳥取城の兵糧攻め・備中高松城の水攻めが活写されていて感慨を受けた。高松城蹟は既に見た。今回は鳥取城蹟を見ておこうという訳。久松山(くしょうざん)の山頂に本丸があった。山麓にあったのは二の丸、三の丸などであるが、普段はここが表舞台だったろう。山頂は高くて険しく、日常的に上り下り出来たものじゃない。
ところで僕の目当ては、戦国期の鳥取城。ここに示した城跡は江戸時代に築造されたもの。秀吉が2万の軍勢で(司馬遼太郎の作品では確か1万数千人)幾重にも柵を廻らして取り囲んだ鳥取城ではない。場所はほぼここであろうが、この様に深い濠を穿ち立派な石垣を廻らした壮大な城ではなかったろう。籠った兵力は国侍衆が1,000人、援軍に駆けつけた吉川経家(きっかわつねいえ)が率いた軍勢が400名だったそう。兵糧が尽きて凄絶悲惨な有様となった城方は、最期、吉川経家独りが腹を切り、城兵の助命を秀吉に受け容れて貰って終わる。この一大スペクタルの現場がここであったことは、谷を挟んだ山が《太閤平》と言い伝えられ、その平らな山頂に秀吉が兵糧攻めの本陣を布いたと伝承されていることからも分る。
次は、鳥取市街地の西郊外にある《湖山池》を目指す。かなり大きな湖なので、ひょっとして絵になる所があるかも・・・との期待を込めて。
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