《曾良・随行日記》《七月十四日 快晴。暑甚だし。富山かからずして(滑川一リ(里)程来(くる)、渡りてトヤマへ別(わかれる))、三リ(里)、東石瀬野(いわせの)(渡し有。大川)。四リ(里)半、ハウ生子(渡し有。甚だ大川也。半里計(ばかり))。氷見へ行かんと欲し、往か不(ず)。高岡へ出る。二リ(里)也。ナゴ(那古)・二上山・イハセノ(石瀬野)等を見る。高岡に申(さる)の上刻着いて宿す。翁(ばしょう)、気色勝れ不(ず)。暑極めて甚だし。不快同然。」
《曾良・随行日記》は続く。《十五日 快晴。高岡を立つ。埴生八幡を拝す。源氏山、卯の花山也。クリカラ(倶利伽羅)を見て、未(み)の中刻、金沢に着く。‥‥」
随行日記に従い、石動市の「埴生護国八幡神社」を訪れた。この神社(平家物語の木曽義仲の倶利伽羅合戦勝利の縁起の晴れ舞台に登場する)、何度も訪れているが、芭蕉の句碑・記念碑を見た記憶がない。神社の前に道の駅「倶利伽羅の里・埴生口」があった。その管理人に質問したら、ない!と断言。この管理人、芭蕉の「奥の細道」に造詣が深くて曾良の随行日記にも通じ、宮司に芭蕉の記念碑を建てましょうと進言しているが意見が合わないそう。ボクの意見――境内に芭蕉の足跡碑を建てるべし。管理人曰く「倶利伽羅峠に私が最近建てた芭蕉・奥の細道掲載54句の木札を掛け並べた木造屋根付き記念碑を建ててあるので見て行って下さい」。峠に確かに54句を連ねた記念碑があった。意外なことに芭蕉の古い句碑が他に二つもあった。
この二日間の記事、芭蕉は奥の細道でどう書いているかというと、
《くろべ四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云ふ浦に出づ。担籠(たこ)の藤波は春ならずとも、初秋の哀れとふべきものをと、人に尋ぬれば、是より五里、いそ(磯)伝ひして、むかふ(向う)の山陰にいり、アマの苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじと、いひをどされて(云い脅されて)、かゞ(加賀)の国に入る。
わせの香や分け入る右は有磯海(ありそうみ)
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。》
七尾に戻ったらもう夕方。裕の家に寄ってみたらみんな居た。夕食をご馳走になり美味しい泡盛も戴いた。必然泊まっていくことに。台風19号が近づいているらしいが、晴天で暑い一日だった。
スマホデビューおめでとうございます (*^^)/ &お疲れさまでした。(;-o-)σ 美味しい泡盛も羨ましいです・・・私、焼酎はまだ挑戦!?してないのですが、日本酒とどっちがおいしいですか? ( ん~、私のpcが壊れかけてるのか?最近、コメント投稿がどうもうまくいかない・・・ダイレクトに書き込んでも消えてしまう・・・)
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