2014年10月17日金曜日

〇「奥の細道紀行」(60) 宮城県白石市「馬牛(ばぎゅう)沼」

〇「奥の細道」には「馬牛沼」についての記述はない。「曾良随行日記」に出て来る。
《‥桑折(こおり)トかいた(貝田)の間二伊達ノ大木戸(国見峠ト云う山有り)ノ場所有り。コスゴウ(越河)トかいた(貝田)トノ間二福嶋領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内)トノ堺有り。左の方、石を重而有り。大仏石ト云う由。さい川(斎川)ヨリ十町程前二、万ギ沼(この沼が「馬(ま)牛(ぎ)沼」)・万ギ山有り。ソノ下ノ道、アブミコブ(「ブ」は「ワ」の間違い)シ(鐙壊し)ト云う岩有り。二町程下リテ右ノ方二次(継)信・忠信ガ妻ノ御影堂有り(この堂が「甲冑堂」、甲冑道のある神社が「田村神社」)。‥》
↓「馬牛沼 九世紀のはじめ頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、この地方にはびこる悪路王や青頭・赤頭など鬼形の者たちに、苦しめられている村人たちのことを知った。そこで、田村麻呂は齋が川で身を清め、鈴鹿明神の助力を得て悪者を退治した。村人はその徳を慕って、祀ったのが田村神社のはじまりと伝えている。この湖畔は、この時の田村将軍の乗馬が沼に落ちて死んだことから馬入沼ともいい、また、沼の中の弧洲が馬に似ているため馬形沼と、さらに、馬首牛身の魚獣が泳ぎ回っていたので馬牛沼と呼ばれたとの伝承がある。この沼は明治30年頃から養鯉場になり、晩秋には名物の「沼乾し」の行事で賑わい、湖中には鯉供養碑が建っている。湖沼の北側の山は馬牛館跡で、伊達★宗・晴宗父子争乱の天文年中には、桑折播磨景長が籠って戦ったとの伝承がある。その館下の道は、遠く源義経が鐙を摺ったといわれ鐙摺石(あぶみすりいし、別称あぶみこわし)の難所であり、奥州街道最大の難所であった。」
↓右側に見える手前の山が「万ギ山」らしい。
↑↓鯉供養碑

0 件のコメント:

コメントを投稿