2015年9月28日月曜日

〇《奥の細道紀行》8/10(月) 酒田・芭蕉ゆかりの人達の故地を探訪。先ずは「不玉宅跡」

《奥の細道》より、
『(鶴岡から)川舟に乗つて、酒田の湊に下る。淵庵不玉(えんあんふぎょく)と云ふ医師(くすし)の許を宿とす。
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
暑き日を海に入れたり最上川 』
《曾良随行日記》より、
『十三日 川舟ニテ坂田ニ趣く。船の上七里也。陸五里成ト。‥‥船中少シ雨降りテ止む。申の刻(さるのこく・午後四時)より曇。暮ニ及びテ、坂田ニ着く。玄順亭(=淵庵不玉亭、不玉は酒田俳壇の重要人物)ヘ音信、留守ニシテ、明朝逢う。
十四日 寺島彦助亭ヘ被ㇾ招。俳有り。夜ニ入り帰ル。暑甚だシ。
十五日 象潟ヘ趣く。‥‥』
〇芭蕉と曾良は象潟からまた酒田に戻る。それから酒田で七泊して、地元俳人らと句吟三昧の日々を過ごした。
《曾良随行日記》より、
『〇十八日 快晴。早朝、(象潟)橋迄行き、鳥海山の晴嵐ヲ見ル。飯終りテ立つ。アイ風吹きテ山海快。暮ニ及びテ、酒田ニ着く。
〇十九日 快晴。三吟始む。明廿日、寺嶋彦助江戸ヘ被ㇾ趣(おもむかれる)ニ因りテ状認(したたむ)。翁より杉風(さんぷう)、又鳴海寂照・越人ヘ被ㇾ遣(つかわされる)。‥‥。
〇廿日 快晴。三吟。
〇廿一日 快晴。夕方曇。夜ニ入り、村雨シテ止む。三吟終る。
〇廿二日 曇。夕方晴。
〇廿三日 晴。近江や(屋)三良兵へ(衛、さぶろべえ)へ被ㇾ招。夜ニ入り、即興ノ発句有り。
廿四日 朝晴。夕ヨリ夜半迄雨降ル。
一 廿五日 吉。酒田立つ。‥‥』
◎今度酒田に行ったら、次の箇所を必ず探訪する。
★「不玉宅址」。酒田市役所の向、中町一丁目11ノ4、今・佐藤歯科医院。「淵庵不玉と云ふ医師」。本名・伊東玄順。「三吟」の歌仙が巻かれた。《温海山や吹浦かけて夕涼み》が発句。
★「安種亭令道・寺島彦助宅跡」 「寺島彦助亭ヘ被招、俳有り」の亭跡。《涼しさや海に入りたる最上川》の発句で始まる歌仙が巻かれた。
★「玉志・近江屋三郎兵衛宅跡」。荘内証券(市役所筋向い)の前。「即興の発句」《初真桑四にや断ン輪に切ン》で始まる歌仙が巻かれた。この真蹟懐紙は本間美術館に収蔵されている。
★本間美術館
★鐙谷(あぶみや)家
★日和山公園「芭蕉坂」を歩く。芭蕉の酒田上陸地から続く坂。坂を上った先が漁師町。
〇芭蕉は酒田で過ごした(象潟探訪後の)七泊のことをたった一行で片づけている。
《奥の細道》より、
『酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(はるばる)のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞く。‥‥』
〇以上が五月の連休の時の旅日記。八月盆の夏休み旅行では酒田に行ったら何としても先ずもって《不玉宅跡》を探訪しようと期していた。それを実行。猛暑日だった。
↓酒田市役所前交差点。市役所向かいに「奥の細道・不玉宅跡↓」の案内標識が立っている。
 向いの通りを入って行くと、
 緑の植木が見える。
 ↓遂に不玉宅跡に到達。

 ↓「芭蕉遺跡・不玉停 元禄二年(1689)の夏、芭蕉と曾良が訪れた伊東玄順(俳号不玉)宅跡である。象潟行の前後を通じ九泊した「奥の細道」ゆかりの地であり、この間翁は左の名句を残した。不玉の墓は妙法寺に再建されている。
暑き日を海に入れたり最上川
温海山や吹うらかけてゆふ涼
初真桑四にや断ン輪に切ン
〇寺島彦助亭・玉志亭跡等は稿を改める。

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