2015年9月10日木曜日

〇《奥の細道紀行》8/9(日) 新潟県村上市「北中・芭蕉一宿の地」

《曾良随行日記》より、
『〇廿七日 雨止む。温海立つ。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ関(ねずがせき)被ㇾ趣(おもむかれる)。予ハ湯本(温海は温泉地)ヘ立寄り、見物シテ行く。半道計(ばかり)ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及ㇾ暮、中村(今・新潟県北中)ニ宿ス
〇二十八日 朝晴。中村ヲ立ち、到蒲□(蒲□は、葡萄ではないか)・(名ニ立つ程ノ無ㇾ難所)。甚雨降ル。追付(おっつけ)止む。申ノ上刻(さるのじょうこく・午後三時半過ぎ)村上ニ着き、宿借りテ城中ヘ案内。‥‥。』
芭蕉一行が北中に一泊したことは曾良の随行記が昭和になって初めて発見されて明らかになった。随行記には宿場は中村と書いてある。しかしどんな地図にも中村という地名はない。学者研究者は困って曾良の誤記説まであったが、何と真相は凄い。曾良随行記の真価は太陽の輝きを放つことに。明治政府が命令を下し同一行政区内に同一地名があるときは地名の上に上・中・下あるいは東・西・南・北を付けることにしていたのだ。芭蕉と曾良が一泊した中村も南に同一地名があったので「北中村」に改称されその後「北中」と称することになった。地図帳の北中が芭蕉の時代の中村。曾良随行記に真贋論争が生ずる余地はない。北中の三叉路に芭蕉宿泊の宿が今もあった。山深く辿ってくる旧出羽街道と海岸線を辿ってくる旧出羽街道がここで交わり一本道となって南下して越後路となる。
↓北中の三叉路。北黒川から来る道が鶴岡から奥山越えで来る道。中津原から来る道が鶴岡から海岸沿いに来る道。大毎に行く道が越後路で村上に至る。この三叉路に、芭蕉一宿の宿があった。


↓三叉路に建つこの旅籠が、芭蕉一宿の宿らしいのだが果たしてどうか。この三叉路付近が一宿の地であることは間違いない。
↓「旅籠」の看板が見える。漆喰製。
〇芭蕉と曾良はここで一泊し、翌朝村上城下を目指した。

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