2015年10月3日土曜日

〇《奥の細道紀行》8/10(月) 象潟に芭蕉ゆかりの人達の故地を訪ね歩く(1)

《曾良随行日記》より、
十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所馬足不通。 番所手形納。大師崎共(とも)三崎共云(ともいう)。一リ()半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越(当時象潟は塩越と呼ばれた)迄三リ。半途ニ関(せき)ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成(なり)ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ()入テ休。昼ニ及テ塩越ニ着佐々木孫左衛門(能登屋の主)尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。(ところ・在所)ノ祭ニ付 而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル。今野加兵へ()、折々来テ被レ訪。
〇↓象潟の街中で芭蕉ゆかりの人達の故地を探したがなかなか見つからずウロウロしていたときに、文化財風の公民館の前に「奥の細道」の大絵図があった。以下、大絵図を分解して示す。
 ↓16日 左図「吹浦を発って三崎峠越えをする」 右図「雨が激しく船小屋に雨宿りする。」
 ↓16日 左図「昼ころ能登屋孫左衛門を訪ねる。その夜は向屋の左右衛門治郎に泊まり、17日は能登屋に泊まる」 右図「象潟滞在中何度も象潟橋から全景を眺望した」
↓「17日 夕方、舟で潟巡りをして島々を眺めた」
 ↓「17日 夕方(間違い。朝飯後である)、潟巡りの最後に(これも間違い。寺参りは朝飯後)カン満寺へ参拝した」
 ↓「18日 早朝、鳥海山の全容を眺めて酒田へ向かう」
〇象潟に着き能登屋に泊まろうとしたが、①「所の祭」で女客があるため向かいの②「向屋」に泊めてもらうことに。翌日は③「能登屋」に泊まった。
①「所の祭」 象潟橋からほど近い「熊野神社」の祭礼だと解釈されている。

 ↓「‥‥。元禄2年(1689)6月16日(現暦8月1日)は松尾芭蕉が象潟に到着した日ですが、この日がたまたまこの神社の祭礼の日でした。曾良日記には祭りで宿が女客でいっぱいであったため「向屋」に泊まったと記され、この祭りに関しての一句は
象潟や料理何くふ神祭(曾良)
というものでした。‥‥」

 ↓熊野神社の高台境内からセレナ君が見える。セレナの後ろに舟繋ぎ石が見えている。更に後方に赤い象潟橋が架かっている。
 拝殿
 左・幣殿、その後ろ中央・本殿。
③「能登屋跡」発見
 ↓「奥の細道 芭蕉が宿泊した能登屋跡
芭蕉は元禄2年(1689)6月16日、門弟の曾良を伴って昼すぎに象潟に着いた。能登屋へ泊るつもりでわらじをぬいだが、熊野権現の祭りで女客があって、やむなく向屋へ一泊した。翌17日は、能登屋・佐々木孫左衛門という旅人宿へ泊まった。名主の④「今野又左衛門と実弟の⑤「嘉兵衛」が歓待した。ここが17日に宿泊した能登屋跡である。」
 ↓能登屋跡は今は駐車場になっている。菓子屋さんになっているという情報だったんだが。廃業したと思われる。
②「向屋」は能登屋の向かいだというので容易に発見できると思っていたんだが。
↓向かいはこの家。能登屋跡のような案内標識が何もない。
無いはずがないと思って向かい一帯を探し回ると、上図の家の前に↓こんなものを発見。
 この鉄棒の上部に能登屋跡と同様「奥の細道・芭蕉が宿泊した向屋跡」の案内標識がくっ付いていたはずなのだ。それにしても観光行政がお粗末。
〇芭蕉ゆかりの人達・事績の故地の探訪記がまだ続きます。

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