2019年12月3日火曜日

★奥の細道紀行 第200章 鶴岡市「鼠ノ関跡」

曾良随行日記』 『‥‥。〇廿六日 晴。大山ヲ立つ。‥‥未の剋(ひつじのこく、午後二時)、温海に着く。鈴木所左衛門宅に宿。‥‥
〇廿七日 雨止む。温海立つ翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ関(ねずがせき)被ㇾ趣(おもむかれる)。予ハ湯本ヘ立寄り、見物シテ行く。半道計(はんみち・ばかり)ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及ㇾ暮、中村ニ宿ス。」
□「温海」は二つの町に別れていた。浜温海は海岸線の漁村、湯温海は山中の温泉地。
□「中村宿」は今の「北中」のこと。
↓「道の駅・あつみ」で見た落日。



 ↓山形県・新潟県境にある鼠ヶ関跡。




 ↓「勧進帳の本家」を主張している。
↓「史跡・近世念珠関址
関所の変遷 鼠ヶ関には関所址が二ヶ所ある。ここ(鼠ヶ関字関)に慶長年間(1596~1614)から明治5年(1872)まで設置されていた近世の関所址、ここから南方約1kmの県境にある古代の関所址である。‥‥
古代鼠ヶ関址 昭和43年(1968)10月、山形・新潟両県境の発掘調査により古代関所跡の存在が確認された。‥‥この遺跡の年代は、平安中期から、鎌倉初期の10世紀から12世紀にわたっている。‥‥
近世念珠関址 このように、古代の関所址の貌が明らかになったことから、関にある近世の関所址を、「近世念珠関址」とし、「古代鼠ヶ関址」と区別することにした。近世念珠関は江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と呼ばれていた。‥‥
鼠ヶ請求と源義経「義経記」の義経一行奥州下りの鼠ヶ関通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」を思わせるごとき劇的場面として描かれている。また、当地方には次のような物語が伝えられている。義経一行は越後の馬下(まおろし、村上市)まで馬で来るが、馬下からは船で海路をたどり鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿をもとめ、長旅の疲れをいやし、再び旅立って行ったという」
↓「史蹟念珠関(ねずがせき)址」石碑


民家の前の庭園のような区域に、関所の番所等施設があった

0 件のコメント:

コメントを投稿