日本書紀の天智8年(669)の一節。「この年、佐平・余自信、佐平・鬼室集斯ら男女700余人を近江国蒲生郡に移住させた」。「佐平」は百済の官位の最高位。佐平たる二人の高官に率いられて彼らは日本に亡命していた。白村江の海戦の後。
「鬼室神社」
↑日本語とハングルで解説されている。「鬼室神社 近江朝廷が大津に都を定めた頃、現在の韓国、時の百済国から我国へ渡来をした多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯という高官の墓碑が、この神社の本殿裏の石祠に祀られているところからこの社名が付けられた。古くは不動堂と言い小野(この)村の西の宮として江戸期まで崇敬された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきた。また、今日では鬼室集斯の父、福信将軍が大韓民国忠清南道扶余群恩山面(うんざんめん)の恩山堂にお祀りされていることから、姉妹都市としての交流が盛んに行われている。」
↓お堂の背後に鬼室集斯の墓碑が祀られている。
〇この墓碑の真偽が論じられている。鬼室集斯が死んでからはるか後年に造られた墓碑であるという説が有力。
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