〇西行法師が北面の武士を辞したのが23歳。それからしばらくは京の周辺をうろついていた。西山・鞍馬・東山をうろついたことは確からしい。東山ではこれから探訪する「双林寺」に庵を結んだと云う。その当時の双林寺は広大な寺域を有し数多くの子院塔頭寺院を擁する大寺だった。それが兵火にも遭い衰微し、円山公園や大谷本廟にも境内を割かれて見る影もない小寺となっている。ここで双林寺の落ちぶれ振りを如実にするエピソードを一つ。今回双林寺を訪ねあぐねて大谷本廟を清掃しているお爺さんに「双林寺」の在り処を訊いたら、近隣にある筈なのに知らないとの答え。怪訝に思いながら目の前のみすぼらしい小寺のお堂を訪ねてみることに。ひょっとしたらとそこではないかとの思いが横切ったので。訪ねると何とそこが目当ての双林寺。小さな本堂が一つだけ。隣りの大谷本廟の老従者の眼中にも入らない名もなき小寺に落ちぶれ果てているということ。
↓円山公園、大谷本廟に隣接する双林寺。境内の一画を石屋にも譲っている。
「大聖歓喜尊天双林寺」 天台密教の寺
↓「延暦年間伝教大師を開基に招じて創建。‥鳥羽天皇の皇女入寺などもあって栄え、広い境内と多くの塔頭子院を有したが、中世になって衰微するに至った。‥明治の中頃、円山公園が設置された際に多くの寺地を失い、現在は本堂の一宇にその名残をとどめるのみである。‥この地には、かつて、西行、平康頼、頓阿などが庵住したと伝えられ、本堂の南西飛地境内地には今も西行堂が建つ。‥」
↓中央が西行の墓碑だという。後世建てられた。左から頓阿、西行、平康頼の墓碑だそう。「頓阿」は読めるが、他は風化して読めない。
2016年4月4日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿