↓白寿観音
↓鐘楼
↓芭蕉・丈六塚の碑文の全文を清書した石碑
「伊賀国阿波庄に新大仏寺といふあり。此ところはなら(奈良)の都東大寺のひしり(聖)俊乗上人の旧跡なり。仁王門・鐘楼のあとは枯たる草のそこにかくれて、松のいはゞ事とはむ礎居はかりすみれのみしてと云けむも、かゝるけしきに似たらむ。なを分いりて、蓮花台・獅子の座なんどは、いまだ苔のあとをのこせり。御仏はしりへなる岩窟にたゝまれて、霜に朽苔に埋れてわづかに見えさせ給ふに、御ぐし計(ばかり)はいまだつゝがもなく、上人の御影をあがめ置たる草堂のかたはらに安置したり。誠にこゝらの人の力をついやし、上人の貴願いたづらになり侍ることもかなしく、涙もおちて談もなく、むなしき石台にぬかづきて
丈六に陽炎高し石の上 芭蕉桃青」
↓丈六塚碑文全文の清書石碑(手前)と右端から大師堂・大仏殿・宝物殿↓「丈六塚 丈六に陽炎高し石の上
この句は、芭蕉が貞享5年(1688)の帰省のさい大和屋宗七・菅野宗無の二人の旧友とともにこの寺を訪れたときの様子を大仏の記とともに読まれたものです。この句碑は、芭蕉の俳文「新大仏寺記」の全文を刻んだ文学碑で、安永9年(1780)芭蕉翁百年祭にちなんで、当時の住職泰音和尚の依嘱をうけて伊賀に滞在中の長月庵若翁が清記したものです。」
↓右・丈六塚、左・大師堂
↓芭蕉俳文と丈六句
↓大師堂 大師とは弘法大師
↓大仏殿
↓大仏殿の奥に不動明王堂が付いている
↓大仏殿の今の本尊・十一面観音
↓大仏殿の左奥隅に古仏の十一面観音が立っている
↓不動堂の奥に石仏の不動明王と二童子が立っている
↓上人堂 上人とは重源上人か「いだ上人」かそれとも両者を指すのか分らない
↓宝物殿
↓一階に大仏が坐っていた石造台座が保存されている。この台座の上に大仏は首から下を朽ち果てさせて、頭・顔だけはしっかりと元のままに坐っていたという。鎌倉時代に快慶が作ったという。江戸時代に胴体部分が作り直された。この寺は廃寺になっていた時期があったそう。真言宗の寺なので檀家・信徒の支持組織がない。収入源は主として加持祈祷によるので得てしてそうなる。
↓大仏毘盧遮那仏・重文、鎌倉時代 いわゆる丈六仏。首から上は快慶作、首から下は江戸時代に仏師祐慶が修復
↓僧形坐像・重文、鎌倉時代
↓興正菩薩像・重文、鎌倉時代
↓五輪板塔婆・重文
↓宋より請来・水晶仏舎利塔、県文化財
↓大仏殿の奥隅に立っていた十一面観音像・平安時代
〇新大仏寺は気持好くすべてを拝観でき、また拝観し甲斐があった。
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