〇平家滅亡後、平氏№2の地位にあった平時忠は能登に配流となった。その子孫が奥能登輪島市町野の地で連綿と生き延びてきた。家臣団が密かに集結し主家を守護してきたと見えて、奥能登の豪族名家となった。
↓保存修理工事中の納屋だろう
↑「由緒と住宅 始祖 平時忠卿が能登に配流されたが、鎌倉幕府の詮議はきびしく、その子時国は牛尾の山中に隠れ、源氏滅亡のあと町野川のほとりに住居を移し、晦日村大刀村の土地を買受け晴れて農耕に従事した。初代時国・二代時晴の時代に両村を合わせて時国村と改め、21代時国左門は山麓を開き名工安章が28年の歳月を費やして竣工し天保2年4月ここに家宅を移したと記録されている。当主は25代目。この部屋は上広間、次の部屋は下広間、各18畳敷きの大広間となっている」
↓平家の家紋・揚羽蝶
↓湯殿の説明が面白い
↓駕籠が4丁並んでいる
〇時国家は、上時国家と下時国家に分かれた。下時国家も重文。
2016年10月14日金曜日
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