2016年10月19日水曜日

〇2014-9-27(日)伊賀市上野「芭蕉翁誕生の地」

〇松尾芭蕉の生家。
 ↓「芭蕉翁誕生の地」碑
 ↓「史跡・芭蕉翁生誕の地 この処は俳聖松尾芭蕉翁の生家である。翁は正保元年(1644)ここで生まれた。父は与左衛門、母は藤堂宮内の移封に従い伊予国宇和島から名張に随従して来た者の女と伝えられる。与左衛門夫婦には二男四女があり、長男は半左衛門命清、次男は金作又は忠右衛門宗房といった。つまりのちの芭蕉翁である。芭蕉が幼少の頃、藤堂藩伊賀附の侍大将藤堂新七郎家の嗣子主計良忠は蝉吟(せんぎん)と号して北村季吟門に俳諧を学んでいた。俳諧好きの芭蕉汪は新七郎家の文芸サロンにも一座するようになり、めきめきと頭角をあらわした。その集大成ともいうべきものは、後の処女撰集『貝おほひ』の版行であった。生家の後園に建つ釣月軒は若き日の芭蕉の書斎である。芭蕉は、ここで俳交のあった伊賀上野の諸士の発句に自句をも交え、これを左右につがえて三十番の句合とし、更に自ら判詞を記して勝負を定め、書名を『貝おほひ』と題簽(せん)し、序文の後尾に「寛文十二年正月二十五日 伊賀上野松尾氏宗房 釣月軒にしてみずから序す」としたため、産土(うぶすな)神である上野天神宮に奉納して文運を祈願した。その春、芭蕉は江戸に赴いた。芭蕉の江戸流寓はこの時期からはじまる。その後、芭蕉は故郷に幾度となく帰省したが、その故郷観は「代々の賢き人々も、古郷はわすれがたきものおもほへ侍るよし。我今ははじめの老も四とせ過ぎて、何事につけても昔のなつかしきままに(下略)」という優に美しい心情をしめしている。
古里や臍の緒に泣く年の暮  芭蕉 」
 ↓敷地は奥に細長い。左奥に、釣月軒、無名庵跡がある
 ↓屋内に入ると芭蕉翁の肖像写真がポスターになって貼られている。

 ↓入って直ぐの居間(表の間)に芭蕉翁の彫像が坐っている。
 ↓俳聖殿の陶像と似ている
 座敷
 炊事場・台所

 ↓庭を左(奥)に行くと釣月軒・無名庵跡になる
 ↓右から風呂場、便所
 ↓月見の献立


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